大道寺政繁:概要

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概要・歴史・観光・見所
大道寺政繁(補陀寺)

【 概 要 】大道寺政繁は小田原北条家の氏康・氏政・氏直の3代に仕えた重臣として知られ御由緒家6家(大道寺氏、多目氏、荒川氏、荒木氏、山中氏、有竹氏)や草創七手家老(大道寺氏、多目氏、荒川氏、荒木氏、山中氏、有竹氏、松田氏)、北条三家老 (大道寺政繁 遠山綱景 松田憲秀)に数えられ、北条家家中の中では大きな影響力を持ちました。天正10年(1582)に武田家が滅び、同年、本能寺の変で信長が自刃すると、武田家旧領である信濃に侵攻し東信濃を掌握、小諸城(長野県小諸市)を占拠しますが、徳川家康と主である北条氏直との同盟が成立すると信濃から引き上げ、国境近くにある松井田城(群馬県安中市)の城主として重きを成します。天正11年(1583)頃から松井田城の修築と拡張の工事が開始され、特に敵が侵攻して来ると思われる西側に郭や堀切を幾重にも設け来襲に備えています。

天正18年(1590)の小田原の役では、松井田城で豊臣軍3万5千(前田利家、上杉景勝、真田昌幸)を城兵3千余で迎え撃ち約1ヶ月にわたり籠城戦が繰り広げられました。政繁が降伏すると、以後は豊臣軍の道案内役として八王子城(東京都八王子市)や松山城、忍城、鉢形城の攻防戦に従軍し大功を収めますが、小田原城が落城し北条家が事実上滅亡すると政繁に対して切腹が命じられました(切腹の理由は諸説ありますが不詳)。享年58歳。菩提寺である補陀寺(安中市)は政繁の居館跡とされ、境内には大道寺政繁のものと伝わる墓碑(宝篋印塔)が建立されています。松井田城の本丸跡に建立されている虚空蔵菩薩堂は政繁が死没後に旧家臣達が政繁の守り本尊と同じ虚空蔵菩薩を祭り大道寺一族の無念を慰める為に創建されたと伝えられています。

補陀寺が境内を構える松井田宿(群馬県安中市)は元々、松井田城の城下町でしたが、江戸時代に入ると中山道の宿場町として整備されてます。隣の坂本宿(群馬県安中市)の間には日本三大関所の一つに数えられた碓氷関所(群馬県指定史跡)が設置されていた為、松井田宿には本陣2軒、脇本陣2軒、さらに、碓氷関所との間には横川村五料村茶屋本陣(3軒何れも群馬県指定史跡)が設けられていましたが、旅籠は14軒に留まり、旅人などの一般客の多くは坂本宿を利用していたようです。

松井田宿の本陣の内の1軒の金井藤右衛門家は当時の屋敷は建坪171坪、式台付の玄関と表門を有し、明治天皇御巡幸の際には宿泊所として利用され、現在も本陣の一部が現存しているそうです。もう1軒の松井田宿の本陣である松本家(屋号:駒之屋)の屋敷は建坪174坪、式台付の玄関と表門を有し、部屋数23室、東側には10軒の店舗が配され、裏門からは非常時に本陣の代わりを務めた不動寺の通路があり、現在でも庭園や井戸、土蔵などの遺構が残されています。脇本陣の徳右衛門家の往時の屋敷は建坪73坪、式台付の玄関と表門は無く、もう1軒の脇本陣の安兵衛家も建坪83坪ながら式台付の玄関と表門はありませんでした。

補陀寺:写真
大道寺政繁と縁のある補陀寺 大道寺政繁と縁のある補陀寺 大道寺政繁と縁のある補陀寺 大道寺政繁と縁のある補陀寺
松井田宿:写真
大道寺政繁と縁のある松井田宿 大道寺政繁と縁のある松井田宿 大道寺政繁と縁のある松井田宿 大道寺政繁と縁のある松井田宿

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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