【 概 要 】藤原秀郷の出生には諸説あり藤原氏北家房前の子左大臣の魚名の後裔とも、下野国史生郷の豪族鳥取氏の後裔とも云われています。前者によると幼少時に京都の田原郷に住していた事から田原氏を称していたそうです。それについても諸説あり相模国淘綾郡田原(現在の神奈川県秦野市)や近江国栗太郡田原郷の出身や住していたとも云われています。
その後、延長5年(927)に下野国押領使役に任ぜられ、唐沢山城(栃木県佐野市)を築いて周辺を支配しました。当時の関東地方は中央の悪政も重なり行政的に荒廃し秩序も乱れていたことで、新たな秩序を得る為に常陸国の平将門が軍事的侵攻で関東8箇国(上総・常陸・上野・下野・武蔵・相模・伊豆)を統一し独自政権の確立を画策しました。領民からは支持されたものの、中央の朝廷から見ると反逆的行為だった為、天慶2年(939)、朝廷は秀郷に将門追討を命じました。翌年の天慶3年(940)に将門を討伐に完遂した秀郷は功により下野国と武蔵国の国守(律令制下の地方長官)と鎮守府将軍に任ぜられ従四位下(死後、正二位)に列しました。
秀郷の後裔は関東一円に国人領主として散らばり実の30数家に登り、結果的に数多くの秀郷縁とされる神社や寺院が設けられました。秀郷が創建したとされる宝珠寺(伊勢崎市)は後裔である赤堀氏の権力圏にあり境内には秀郷の3男である田原千国、又は後裔が秀郷の供養塔として建立したと伝わる五輪塔があり伊勢崎市指定重要文化財に指定されています。
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