【 概 要 】佐々木盛綱は近江国(滋賀県)佐々木庄を本拠とした近江源氏の祖となった佐々木秀義の3男として生まれました。仁安元年(1166)から源頼朝に仕え、治承4年(1180)の挙兵にも呼応し富士川の戦いや常陸侵攻にも従軍し大功を挙げました。元暦元年(1184)の「藤戸の戦い」が佐々木盛綱の代名詞で、備前国児島の砦に500余騎を率いた平行盛を対岸に布陣した盛綱はたった6騎の馬で海を渡り砦を攻略したと伝えられています。
伝承によると、盛綱は島へ馬でも渡れる浅瀬の存在を地元漁師から聞きだし、その後、秘密保持の為、漁師を殺害したとされ、この故事から謡曲「藤戸」が作られたそうです。平家が滅亡するとその功から越後国、伊予国の守護職に任ぜられ、左兵衛尉(律令制における官司)にも列しました。御家人としても頼朝を補佐し度々「吾妻鏡」(鎌倉幕府の正式の歴史書)にも登場しています。
建久10年(1199)、頼朝が死去すると出家して西念と号し幕政からは距離をとりましたが2代将軍源頼家から所領を取り上げられ野国磯部に隠居したとされます。ただし建仁元年(1201)には越後の鳥坂城に籠城した城資盛の討伐や、元久2年(1205年)には京都守護職の平賀朝雅の討伐にも従軍しています。盛綱の隠居場所に程近い松岸寺(安中市)境内には鎌倉時代に建立された五輪塔が2期あり、佐々木盛綱夫妻の墓と伝えられています。
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