【 概 要 】富岡家は結城氏の一族とされ結城久朝の子である直光(又は久朝)が上野国甘楽郡富岡郷を与えられ地名から富田氏を名乗ったのが始まりとされます。当初は古河公方足利氏に仕え、足利政氏や足利晴氏から感状を賜り、居城である小泉城(大泉町)を本拠に力を蓄えていったと思われます。
3代秀信は永禄5年(1562)頃から上杉謙信に属し、同じく謙信に同調した横瀬(由良)氏の補佐的な立場だったようです。
その後、横瀬(由良)氏の裏切りから佐貫庄上郷五郷が奪取され、これを機に小田原北条氏に属するようになり、永禄11年(1568)の死に際にも由良氏に対し怨んでいたと伝えられています。4代秀親は永禄12年(1569)、忍城(埼玉県忍市)攻防戦により討死、享年25歳で跡継ぎがいなかった為、小山氏から重朝を養子として迎えています。
その後、重朝は秀長又は秀高に改称したようで引き続き北条家に属し、北条家から秀長宛、秀高宛の書状が送られています。
天正12年(1584)、金山城(太田市)が事実上北条家の手に渡ると新田領と館林領の一部が加増されますが天正18年(1590)、小田原の役の際、6代秀朝は北条家に呼応して小田原城に籠城、北条家が滅亡、小泉城も落城し富田家も大名家としては没落しています。
龍泉院(大泉町)は富岡家の菩提寺とされ境内には富岡秀信の供養塔が建立されています。小泉城の近くには富岡家の崇敬社だった小泉神社が鎮座しています。
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