本多広孝・康重・紀貞:概要

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概要・歴史・観光・見所
本多家(源空寺)

【 概 要 】本多広孝は古くから徳川宗家(当時の松平家)に従い、当時の当主松平広忠から「広」字を賜り広孝に改称しています。天文18年(1549)には幼少だった竹千代(後の徳川家康)を織田方からの奪還戦を遂行し見事目的を果しています。広忠が死去した後も宗家である家康を補佐し松平家が今川家から独立後の永禄4年(1561)には藤波畷の戦いで今川方の東条吉良氏を破り、永禄7年(1564)には田原領に侵攻し、その功により田原城(愛知県田原市)の城主になっています。当時、家康旗下の家臣で城持ちだったのは吉田城(愛知県豊橋市)の酒井忠次と広忠だけで、功績と信頼の篤さが窺えます。

その後も元亀3年(1572)の三方ヶ原の戦いや、天正3年(1575)の長篠の戦い、天正12年(1584)の小牧長久手の戦いなどに従軍し徳川家繁栄に尽力しています。天正5年(1577)には嫡男である康重に家督を譲り、形式上は隠居していますがその後も家康の側近の1人として数々の功績を挙げています。天正18年(1590)、家康の関東移封に伴い、田原城から白井城(群馬県渋川市:白井宿)に移封となり、康重に2万石、広孝に1万3千石が与えられ白井藩が立藩しました。広孝は照誉無哲を招いて自らの菩提寺である源空寺(白井宿)を創建、慶長2年(1597)に死去、享年70歳、戒名「全性院殿前越州大守玉岸道楚大居士神儀」。

慶長6年(1601)、康重は関が原の戦いで徳川秀忠に従軍し上田城(長野県上田市)攻防戦で殿を務めるなど一定の功を挙げた事から岡崎藩(愛知県岡崎市)5万石で移封となります。康重の3男本多紀貞は元和4年(1619)、1万石が与えられ本多家の旧領である白井藩主に復帰、しかし、跡継ぎがいないまま寛永元年(1624)に死去し白井藩も廃藩となっています。享年44歳、戒名「源光院殿前備州然誉宗廓大居士」、菩提は祖父にあたる広忠と同じ源空寺(群馬県渋川市:白井宿)に葬られています。

白井宿(群馬県渋川市白井)は白井城の城下町として整備、町割した町ですが、白井藩が廃藩になり白井城が廃城になった後も引き続き当地域の経済的な中心として町割が維持されました。白井宿は大名が参勤交代で利用する主要街道の宿場町ではありませんが、前橋城(群馬県前橋市)と沼田城(群馬県沼田市)の城下町を結ぶ、沼田街道西通りの街道沿いにあった為、城下町時代の商家町の町割りを引き継ぎ宿場町のような町並みが維持されました。

白井宿は、前述したの沼田街道西通りと、三国街道の宿場町である渋川宿(群馬県渋川市)に抜ける脇道、同じく三国街道の北牧宿(群馬県渋川市北牧)を経て草津温泉(群馬県草津町)に到る草津道が交差する交通の要衝で、毎月6度の市場が開かれ近隣は元より遠方からも商人が集まり、市の当日は活況を呈していたようです(沼田街道西通りは正式な街道では無かった為、白井宿も宿場町的な存在ではあったものの正式な宿場町ではありません)。江戸時代後期からは白井宿でも養蚕が盛んになり、蚕や生糸の取引で財を成す家も多く、現在でも多くの町屋建築が残され、往時の町並みを見る事が出来ます(江戸時代の建物は火災の為多くが失われています)。

源空寺:写真
本多広孝・康重・紀貞と縁がある源空寺 本多広孝・本多康重・紀貞と縁がある源空寺 本多広孝・康重・本多紀貞と縁がある源空寺 本多広孝・康重・紀貞と縁がある源空寺
白井城:写真
本多広孝・康重・紀貞と縁がある白井城 本多広孝・本多康重・紀貞と縁がある白井城 本多広孝・康重・本多紀貞と縁がある白井城 本多広孝・康重・紀貞と縁がある白井城
白井宿:写真
本多広孝・康重・紀貞と縁がある白井宿 本多広孝・本多康重・紀貞と縁がある白井宿 本多広孝・康重・本多紀貞と縁がある白井宿 本多広孝・康重・紀貞と縁がある白井宿

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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