【 概 要 】北条高広は永正14年(1517)に北条高定の子供として生まれたとも云われています。幼少の頃に北条氏の家督を事実上掌握していた安田(北条)広春の養子となり、大永4年(1524)に広春に死去に伴い北条家の家督を継いでいます。越後守護代である長尾氏を仕える一方、半独立性を維持し天文23年(1554)には武田信玄に転じて反乱を起こしています。
その後は上杉謙信の重臣として重用され永禄6年(1563)には関東侵攻の拠点である前橋城(厩橋城)に配されています(支城として大胡城も管理し、一族と思われる大胡高繁を配しています)。しかし、永禄10年(1567)に小田原北条氏が侵攻してくると上杉家を背き、永禄11年(1568)に越相同盟が成立すると上杉家に戻っています。
天正2年(1574)に隠居すると前橋城(厩橋城)を離れ支城である大胡城に入り、天正6年(1578)に謙信の死去に伴い出家し安芸入道芳林に改めています。上杉家の後継争いである御舘の乱では上杉景虎をに与した為、没落し天正7年(1579)に武田勝頼に下っています。
天正10年(1582)に織田家の武田領侵攻により勝頼が自刃すると、織田信長の家臣滝川一益に仕えますが、同年、本能寺の変で信長が倒れると一益も自領に引き上げた為、小田原北条氏に下っています。
沼田城侵攻の命を拒否し、上杉景勝に転じたものの、箕輪城を攻略した小田原北条氏の猛攻にさらされ前橋城(厩橋城)は落城しています。天正15年(1587)に死去したとされます。
北条高広は前橋城(厩橋城)の城主時代に社寺の保護を行い、永禄8年(1565)には善勝寺に寺領寄進状を発布、永禄9年(1566)には三夜沢赤城神社(神官である奈良原紀伊守宛ての古文書が残されています)に社領九貫弐百文を寄進、元亀2年(1571)には厩橋八幡宮(現在の前橋八幡宮)に土地寄進状・諸役免許状を発布、天正9年(1581)には火災で焼失した芳林山栄興院長昌寺を現在地に境内を遷し堂宇を再建しています。
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