【 概 要 】徳川忠長(戒名:峰巌院殿前亜相清徹暁雲大居士)は3代将軍徳川家光の実弟で、幼少の頃から容姿端麗、文武両道の人物として両親である徳川秀忠、江姫からの期待が家光より上回ったとされます。中には忠長を3代将軍に推す一派も台頭した為、家光の乳母である春日局が徳川家康に直談判が功を成し家光の将軍職への流れが決定的となりました。元和2年(1616)、忠長には甲府藩23万8千石が与えられ事実上、家臣化され、寛永元年(1624)には駿河国と遠江国の一部が加増され合計55万石の大大名となりました。この頃になると再び忠長を将軍に推す勢力の存在などから家光との関係も悪化し、寛永8年(1631)には些細な理由から甲府蟄居が命じられます。
翌年、秀忠が危篤になった際も、江戸入りが拒否され、秀忠死後、幕府の許可を得ず寺院(秀忠の供養の為)を建立した事や怪文書が咎められ高崎城(和田城)の城主の安藤重長に預けられ大信寺(高崎市)で軟禁となります。重長は度々助命を窺いますが認められず、寛永10年(1634)、忠長は高崎藩の藩庁である大信寺(高崎市)で自刃、ただし死後も罪が許されず延宝3年(1675)にようやく境内に墓碑と御霊屋が建立されましたが、御霊屋の周りに玉垣を廻らし鎖で繋がれていた為「鎖の御霊屋」の異名がありました。大信寺にある徳川忠長の墓(附忠長の霊牌その他)は高崎市指定史跡に指定されています。
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