【 概 要 】牧野康成は牛久保城(愛知県豊川市)の城主牧野成定の子供として生まれ、幼少の頃から徳川家康に従った為信任が篤く、相続の際は後押しされ、名前の康成も家康の「康」の字を拝領しています。永禄12年(1569)の掛川城(静岡県掛川市)攻防戦や天正3年(1575)に長篠の戦い(愛知県新城市長篠)などに従軍し家康の領土拡張に尽力しました。
その後は酒井忠次の配下という立場でしたが天正18年(1590)、家康が関東に移封になると上野国大胡領(群馬県前橋市:本城−大胡城)2万石が与えられ諸侯に列し、大胡城の改修や城下町の整備が行われました。
康成は菩提寺となる養林寺に寺領100石を寄進し、崇敬した二宮赤城神社を再興、慶長2年(1597)には康成が月照山湯清寺を創建するなど領内支配に尽力しています。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従軍し中山道を西上、西軍方に与した真田昌幸、幸村父子が守る上田城(長野県上田市)攻略戦に参加しています。その際、部下の不手際から秀忠に許可無く戦闘が開始され敗北、その部下に切腹命令が出された事を拒否した事から上野国吾妻に蟄居が命じられています(蟄居地は白井城又は岩櫃城など諸説有り)。
慶長9年(1604)、徳川家光誕生の恩赦により大胡藩主に復帰するものの政務は息子である牧野忠成に任せ自らは事実上隠居しています。慶長14年(1609)に死去、遺骸は菩提寺である養林寺(前橋市)に葬られています。
享年55歳、戒名「月照院殿前典厩応誉栄感称徳大居士」。その他の埋葬者は康成の正室である鳳樹院(於虎、三河吉田城主 酒井忠次の娘)。忠成の正室である泰寿院(永原道真の娘)。養林寺の境内に設けられている牧野家墓地は前橋市指定史跡に指定されています。
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