大胡高繁

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大胡高繁
【 概 要 】−大胡常陸介高繁は生年、没年共に不詳、実態が余りよく知られていない人物です。一般的に中世以来、当地に派を成した大胡氏とは関係が無いとされる一方で、大胡氏の一族とされる上泉信綱とは近しい関係だったという説もあります。単純に信綱の子供が上泉常陸介秀胤を名乗り、高繁も常陸介だった事に起因するものですが、江戸時代に入り秀胤は米沢藩上杉家の家臣となり、高繁と関係が深いとされる北条高広が上杉謙信に属する国人領主だった事がそのような説が生まれたのかも知れません。

北条高広の祖は戦国時代に大大名とし名を馳せた毛利家と同族で大江氏毛利氏流の宗家として家督を継ぎ、上杉謙信の下で功績を挙げた事で永禄5年(1562) に関東進出の拠点となった厩橋城(前橋城)に、支城である大胡城には高広の弟と思われる北条右衛門尉光広が配されています。天正11年(1583)に光広が死去していますが、天正10年(1582)頃から光広に代わって大胡高繁が大胡城で采配していたようで、同じ頃に制作された小田原北条氏の家臣団に付いて記されている「小田原一手役之書立」に北条高広(毛利殿=北條芳林)と共に大胡殿(高繁)の名を見る事が出来ます。その後、高広は大胡に隠居し天正15年(1587)に死去している事から高繁との関係が深い事が窺え、高繁の「高」は北条氏一族の名に共通する事から血縁関係者だった可能性もあります。又、他家が発した書状には「毛安同常陸云々」とあり、毛安(北条高広)と常陸(大胡高繁)が同じように記されているのも興味深いところです。天正18年(1590)に小田原の役が発生すると高繁は小田原北条氏方に与したようで、北条家が滅亡した後は消息が不明となっています。

高繁と大胡氏宗家との違いは宗教でも現れています。大胡氏の本拠となった大胡城の城内には二宮赤城神社の別当寺院だった玉蔵院が境内を構えていた事から、城の鎮守社は二宮赤城神社の系統だったと思われますが、高繁はある意味二宮赤城神社とは対立関係にあった三夜沢赤城神社を信仰したようです。天正10年(1582)に高繁が大胡城の城主になると三夜沢赤城神社に対してに壱貫文が奉納、天正13年(1585)には武運長久と子孫繁栄を祈念するともに「守護不入」の禁制を発布、同年に武運長久と子孫繁栄、領内安全を祈念する共に社領九貫文寄進、天正17年(1589)には大胡城の鎮守社である近戸神社(現在の大胡神社)創建の為、三夜沢赤城神社の分霊を勧請し神官である奈良原紀伊守の父子のどちらかが奉斎して欲しい旨を嘆願しています。

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