・阿佐美館は治承年間(1180年頃)に那波季弘が築いたのが始まりとされます。
那波季弘は藤原秀郷の後裔の一族とされる佐貫成綱の子供で、上野国那波郡(現在の群馬県伊勢崎市・玉村町)を本貫地とした事から「那波」姓を掲げました。
季弘は保元の乱の際、河内源氏六代目棟梁だった源頼朝に従軍し功績を挙げた事で地位が確立しています。
しかし、跡を継いだ那波弘澄は木曽義仲に仕え、多くの家臣が離反する中、最後まで従い、元暦元年に京都の六条河原で鎌倉の大軍をたった二百騎の木曽軍の先頭に立ち奮戦するも討死しています。
これにより、那波家の本流は滅亡しましたが、弘澄の娘婿である大江政広が那波家の名跡を継「那波」姓を掲げています。
阿佐美館の館主は弘澄の後、家澄、景澄と続きますが、大江姓那波氏とどの様な関係性だったのかは不詳ですが、戦国時代に入ると、当館の館主は阿佐美氏だったとされます。
阿佐美氏は武蔵七党の児玉塔出身の氏族で、4代目児玉庄太夫家弘の五男である庄五郎弘方が武蔵国児玉郡浅見村を本貫地とした事から「阿佐美」姓を掲げています。
その後、阿佐美氏は上野国や、越後国、加賀国にも所領を得ている事から当地にも一族が配された可能性があります。
現在、館址は花台寺の境内として利用され、館主の後裔と思われる阿佐美重長が施主となり元禄2年に五智如来石仏を奉納、さらに阿佐美五兵衛の生身仏と呼ばれる墓碑が建立されています。
阿佐美館は花台寺の境内が主郭で周囲を堀と土塁で囲っていたと思われますが、目立った遺構は失われている為、目立った遺構は失われている為、正確な規模や施設等は不詳となっています。
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