・海老瀬城が何時頃築城されたのかは判りませんが、海老瀬秀兼が城主だったとされます。
海老瀬氏は鎮守府将軍藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏4代当主足利俊綱の跡を継いだ5代当主足利忠綱の3男足利忠行が富士源太左衛門を名乗りその跡を藤六郎房行、源太左衛門房綱、六郎房行と続き、房行の代から藤岡姓を掲げています。
房行から6代後裔の忠行が「海老瀬」姓を掲げ海老瀬家の家祖となっています。
海老瀬秀兼は館林城の城主で、由良成繁の3男である長尾顕長の家臣だったとされます。
詳細は判りませんが、長尾顕長は天正18年に発生した小田原の役で兄の由良国繁と共に北条方に与し小田原城の籠城戦に参加した事から母親等の活躍で、改易に免れたものの牛久領5千石に減封となり当地を去った為、海老瀬氏も没落や帰農した可能性があります。
海老瀬城は記録や伝承等も無い為、この後どうなったのかは不詳。
現在の城跡は文化財資料館や、海老瀬東公民館、第五水源浄水場の敷地や頼母子薬師堂の境内、山林等で利用され、郭の形状と思われる台地状の地形は明確なものの、土塁や堀等の明確な遺構は失われたようです。
又、城跡にあるシダレザクラとカヤは板倉町指定天然記念物に指定されています。
当時の板倉川の川筋は判りませんが、現在は城域の周囲を板倉川や其の支流、谷田川で囲うような地形になっている為、天然の堀に見立ていたと思われます。
周囲には海老名市関係者の居館と思われる海老瀬館や、海老瀬寄居等もあり、関係性が窺えます。
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