・小串館が何時頃築かれたのかは判りませんが、明確な資料はないものの長く当地を支配した小串氏の居館だったと推定されています。
小串氏は武蔵七党の一つである丹党の庶流が上野国多胡郡小串村を本貫とした事から地名に因み「小串」姓を掲げたのが始まりとされます。
吾妻鏡によると建久6年3月10日に奈良の東大寺供養の為に南都東南院に到着した初代将軍源頼朝の供奉人行列の御随兵の中に小串右馬允の名前が記されています。
「楠木合戦注文」によると元弘3年/正慶2年に後醍醐天皇に与した楠木正成が河内国で反乱を起した為、その討伐軍として派遣された紀伊手の大番衆の中に他の上野国の御家人衆と共に小串入道の名前が記されている事から、小串氏は鎌倉幕府の御家人で、京都の内裏や御所を警備する六波羅探題の大番衆だった事が判ります。
文和2年12月17日に室町幕府2代将軍足利義詮が、上野国守護職の宇都宮氏綱宛てに発給した御教書案によると、上野国多胡荘地頭を巡って、神保太郎左衛門尉と瀬下宮内左衛門尉等、小串四郎左衛門尉以下輩が乱暴している事から代官である佐々木道誉に沙汰するよう命じています。
この事から小串氏は有力な国人領主で周辺領主達と多胡荘の地頭職を巡って争っていた事が窺えます。
その後、上野国の国人領主達は関東管領山内上杉家の被官になっている事から小串氏もそれに倣ったと思われます。
永禄3年に関東で上杉謙信に従った武将を記して関東幕注文に総社衆として小串氏の名が見られる事から、山内上杉家没落後は越後上杉家に従っていた事が判ります。
永禄6年に武田信玄の上野国を侵攻すると最後まで抵抗したようで、その後、上野国の小串氏の記録の上で登場する事が無くなっている事から小串館も廃城になったと思われます。
現在、小串館の主郭跡には小串氏の後裔が開創したと伝わる地勝寺(地蔵寺)が境内を構え、その一角には小串氏の墓碑が建立されています。
土塁や堀等の遺構は失われていますが北側の鏑川の段丘に高低差は城址らしい雰囲気が感じられます。
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