・桃井城は南北朝時代に北朝方の有力武将だった桃井直常が築いたと伝わる中世の城郭です。
城主の資料的な根拠はありませんが、当地は桃井氏の本貫地である上野国群馬郡桃井庄に隣接し、頂部からの見晴らしも良く、本城にするのは相応しい地形である事から可能性は高いとされます。
桃井直常は南北朝時代に足利尊氏に従い、尊氏方の拠点となっていた下野上三川城や箕輪城に入り、軍監として東国の北朝方の武将を支援する立場だったようです。
その後も関城攻防戦や青野原の戦いにも従軍して勝利に貢献し、南朝方の有力武将である北畠顕家の京都入りを阻止する功績等を重ね、若狭国守護職や伊賀国守護職、越中国守護職等の要職を担っています。
観応の擾乱では、一転して尊氏の弟である足利直義方に転じ、尊氏や高師直と対立、その為、本貫地である桃井庄周辺は一族の中で尊氏に従った桃井義盛に与えられています。
直常は正平21年に越中獄で斯波義将等に大敗を喫し、旧領である桃井庄近辺に隠遁したとも云われ、桃井塚に建立されている2基の五輪塔は直常とその奥方の墓碑と伝えられています。
桃井城は榛名山東山麓の位置する独立丘に築かれた、周囲を流れる駒寄川と牛王頭川が天然の外堀に見立てていたようです。
現在は「城山みはらし公園」の整備により多くの遺構が失われています。
桃井城の物見台として利用したと思われる高台は6世紀頃に築造されたと推定される大藪城山古墳で、全長53m、前方後円墳、横穴式石室、葺石で覆われ、周囲には埴輪が並べられ、須恵器が確認されています。
桃井城の南東麓に境内を構えていた金剛寺は桃井家所縁の寺院だったと見られ、その跡地から見つかった宝篋印塔は直常の菩提を弔う為の供養塔、その他複数の五輪塔群は直常に従って討死した家臣達の供養塔と伝えられており、貴重な事から吉岡町指定史跡に指定されています。
金剛寺跡の隣地に鎮座している八幡神社は桃井城の鎮守社と思われる神社で、伝承によると足利義兼に4男である桃井義胤が嘉祥年間に桃井荘の地頭に就任し、当地に赴任した際に源氏一族の氏神である八幡神の御霊を勧請し開創したのが始まりと伝えられています。
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