・小川城は明応元年に当時の沼田城の城主である沼田景久が領内の西側の守備の拠点として築かれたとされます。
小川城は戦略的な要衝だった事から景久は次男である沼田景秋を配し700貫匆を与えています。
その後、小川三郎景祐が城主となりましたが、文亀2年に素行が悪かった事から城主を解任させられ、さらに、沼田城に討ち入りする等の乱行を重ねた為、討ち取れたとされます。
その後城主となった小川秀泰は沼田七騎に数えられる名将として知られ、岡林斉とも称しました。
跡を継いだ小川四郎景奥は度重なる小田原北条氏との戦いに明け暮れ、永正17年には長子の小川景季を失い、大永4年には小川城に火をかけられ死去しています。
小川城は一族とされる北能登守南将監が中心となり修築、赤松則村の後裔を自称する赤松捨五郎祐正が客将として配されています。
祐正は景季の奥方を娶る事で小川家の名跡を継ぎ、小川可遊斉を名乗ると、上杉謙信に属しています。
天文16年に発生した菩提木の戦いでは北条方に与した沼田地方の土豪達と対峙しこれを退けています。
天正8年にも再び北条勢が侵攻し菩提木で一度は勝利しましたが、今度は大軍で小川城が取り囲まれ、奮戦したものの落城、可遊斉は小川城を放棄して、詰め城である見城の柵に逃れています。
そこでも、北条勢に執拗に攻められ、兵糧が尽きた事から上杉家を頼って越後国に落ち延びています。
その後、小川城には一族である北能登守が城代として入りますが、天正18年に真田昌幸が沼田城を支配下にすると真田家に従ったようです。
天正20年頃から小川城は真田家の持城となり、寛永16年から明暦3年まで真田伊賀守信澄(真田信利)が当地に配され、二之丸に陣屋を設けて母親である慶寿院(依田氏の娘)と共に居住しています。
信澄が沼田城に入ると、小川城(陣屋)は廃城になったと思われます。
小川城は利根川による河岸段丘の東端に築かれた崖端城で、西から東に流れる2つ谷によって形成されや三角形の台地を巧みに利用した天然の要害です。
現在でも土塁や空堀等の遺構が残され貴重な事から、みなかみ町指定史跡に指定されています。
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