・小沢城は応永12年に荘田城の城主沼田景朝が築いた中世の城郭で、景朝が本城を井上上町にある荘田城から遷すと、永正16年に幕岩城に遷るまで、4代114年間沼田家が居城として利用しています。
一方、宝暦年間に編纂された「上州故城塁記」によると緒方三郎惟英の子供である三郎(惟泰:沼田家の祖)の後裔の沼田正泰が町田(当地)に館を構え、笛吹城と称し鎌倉の将軍家に仕えたと記されています。
これが正しければ、別系統の沼田氏が鎌倉時代に小沢城の前身となる館(笛吹城)が築かれていた事となります。
又、「日本城郭大系」によると沼田景継が築城したと記されています。
沼田景継は景朝より4代前の当主に当り、鎌倉時代末期には討幕の為に挙兵した新田義貞に同調し、一族郎党を鎌倉攻めに参加させた人物である事から、こちらが正しければ、小沢城は鎌倉時代末期から南北朝時代に築城された事になります。
応永23年に発生した「上杉禅秀の乱」では沼田一族が所属していた「白幡一揆」が関東管領上杉憲基方に加担しています。
永享12年に発生した「結城合戦」では「清方被官」として参戦し一族が戦功を挙げ十ヶ年諸公事免除を獲得しています。
永享3年に発生した「永享の乱」では上杉方に加担し、応仁2年の網取原合戦では沼田彦三郎が討死、文明3年5月30日には三郎の後継者が室町幕府8代将軍足利義政から感状を賜っており、これを契機に白旗一揆の構成員から独立したと推定されています。
室町時代の京都相国寺の僧侶である万里集九は長享2年9月に江戸から京都に帰国する際に沼田の地を通過しており、その時の様子が著書「梅花無尽蔵」に「午後入沼田館、宿・鍛屋、自江戸至沼田城、三百里・・・」と記されており、文中の「沼田館」が小沢城の事と推定されています。
永正16年に沼田泰輝が幕岩城を築城し本城を遷した後、小沢城がどの様に利用されたのかは判りませんが、越後上杉家の侵攻や、武田家家臣真田家の侵攻、内紛等により沼田家は没落した為、その頃に廃城になったと思われます。
最後の当主となった沼田平八郎景義は真田昌幸の謀略により無念の最後を遂げた事から、昌幸は小沢城の城後に景義の御霊を沼田大明神として奉斎し、傍らには墓碑を建立、これは景義の祟りを恐れたからとも、残された旧臣や領民の懐柔策とも云われています。
小沢城の城跡は貴重な事から沼田市指定史跡に指定されています。
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