・高瀬陣屋は慶長14年に新発田藩主溝口秀勝の二男である溝口伊豆守善勝が幕府から当地周辺2千石を賜った際に当地の行政を執行する施設として設けたのが始まりとされます。
善勝は天正12年に秀勝が大聖寺城の城主時代に生まれ、幼少時は豊臣家に属していましたが、慶長5年に発生した関ヶ原の戦いでは東軍方として行動し功績を挙げ、勝利後は徳川秀忠に仕えました。
慶長10年に秀忠の上洛に随行して従五位下、伊豆守に叙任され、慶長14年に幕府から2千石を賜っています。
慶長15年に秀勝が死去すると新発田藩主と溝口家の家督は長兄の溝口宣勝が継承し、善勝には新発田藩から1万2千石が分知された事で、合計1万4千石で沢海藩を立藩、初代藩主となっています。
2代藩主水奥地政勝の代に弟である溝口助勝に3千石、溝口安勝に1千石を分知した事で1万石となっています。
4代主溝口政親は領民に対して重税する等悪政を行い、プライベートでは毎日のように酒を飲み、度々乱交を起した為、それを見かねた家臣達が政親の実兄である水口藩主加藤明英と幕府に現状を訴えた為、貞享4年に改易となり、沢海藩は廃藩、これに伴い高瀬陣屋も廃止となっています。
高瀬陣屋は東西約200m、南北約100mの単郭の陣屋で、正面である北側の中心には大手門、東側に搦手門が設けられ、家臣の屋敷街に通じていました。
陣屋の内部は南西隅に御殿、南東隅に牢屋や作事小屋、馬屋、北側には長屋、又は土蔵のような建物が配されていました。特に高い土塁や、深い堀等は無かったようで現在もその遺構を見る事は出来ません。
周囲には目立った川や崖等も無い事から要害も期待出来ず、背後の高台に境内を構えている光厳寺が詰め城に見立てていたのかも知れません。
群馬県:城郭・再生リスト
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