・桐生陣屋は天正18年に徳川家康の関東移封に伴い、家康から桐生一帯の開発を命じられた大久保長安が手代である大野八右衛門を当地に派遣し、開発の拠点として設けたのが始まりとされます。
大野八右衛門は武蔵国多摩郡横山村で生まれ、大久保長安の配下として天正19年に当地に配されると、桐生天満宮と現在地に遷座し、天満宮の境内を起点、浄運寺を終点として南西方向に一直線の5間幅の道路で結んで町割りを行い桐生新町の創設に尽力しています。
町人町は15町50間に及び、さらに桐生陣屋と桐生新町を結ぶ1町32間の横町が町割りされ、町並みが形成されると桐生天満宮境内を中心に酉の市が開催されるようになっています。
慶長19年に八右衛門が死去、市内の鳳仙寺には供養塔が建立されています。
その後、桐生周辺は徳川綱吉の藩主時代の館林藩領に組み込まれ、天和3年に綱吉の世子である徳松が死去すると嗣子が無く館林藩は廃藩となり、当地は神尾元珍の弟で旗本の神尾元清領となっています。
その後、天領、さらに旗本神尾元簾領となり安永8年に庄内松山藩酒井石見守忠休が桐生領5千石の加増を受けて、天明5年に陣屋の屋敷を新築しています。
酒井忠休は庄内藩士酒井直孝の子供として生まれたものの、先代藩主酒井忠予の嗣子だった酒井忠英が廃嫡となった為、養子となり、幕政では若年寄等の要職を担った事から5千石が加増されています。
桐生陣屋は寂光院の境内周辺とされ、境内直下の保育園の敷地には空堀が設けられていたようです。
明治維新後に陣屋は廃されましたが、陣屋門の一つが当地の名主で、忠誠当地の領主だった桐生家の家臣だった田村家の屋敷に移築され、その姿を見る事が出来ます。
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