・長根城は永禄年間に長根(小河原)重清によって築かれたとされます。
長根氏は国峰城主小幡氏の庶流とされ、重清は小幡信貞の弟とも云われています。
重清は当主、上杉謙信に従っていたようですが、永禄年間に武田信玄に転じ、永禄8年に行われた厩橋城主長尾景善の弟である新五郎長景が守る石倉城攻めでは武田方として参陣し、落城後は城将として石倉城の守備を担っています。
しかし、厩橋城代の北条丹後守長国の逆襲にあり、石倉城は奪還されています。それに対して信玄も大軍の援軍を派兵、石倉城を取り囲み僅か2時間で石倉城は再び武田方に落ちたとされます。
永禄10年、重清は上州多野郡長根周辺を本拠地とする神保小次郎と吉田左近助毅、浅利左馬助ろ連名で武田信玄の忠誠を誓う起請文を生島足島神社に奉納しています。
重清は信玄が死去すると、武田勝頼に従い、天正3年に行われた長篠の戦いの際には30騎を率いて従軍、天正8年の膳城の攻防戦で甲冑を装着せず、城攻めを行った為、討死しています。
跡を継いだ長根信盛は天正10年に武田家が滅びると長根に戻り小田原北条氏に従っています。
文禄年間に松平右京大夫家治が7千石で長根に配された際、長根城の南西300m程の所に長根陣屋を設けている事から、其の頃には長根城は既に廃城になっていたと推察されます。
長根城が廃城になった後は城跡山不動院光円寺の境内として利用され、明治8年から明治42年までは長根学校の敷地となり、それ以降は畑地や民家、不動堂、明治45年には近隣の神明宮、菅原神社、稲荷神社、熊野神社、諏訪神社、境内末社が合祀された長根神社が城跡の一角に創建されています。
長根城は鏑川方向に北側に伸びた段丘の先端に位置し、比高約30m、本丸の規模は東西約90m、周囲を堀と土塁で囲い、南側には二之丸、東側には帯廓が配されていました。
長根城の城後は現在も堀や土塁の一部が残され、貴重な事から高崎市指定史跡に指定されています。
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