・台源氏館が何時頃築かれたのかは判りませんが、台源氏と呼ばれた新田宗家に新田政義、新田政氏、新田基氏、新田朝氏、4代の居館だったとされます。
新田宗家は源氏の正統血統として新田政義も有力御家人の地位にありましたが、幕府に無許可で昇殿と検非違使への任官を求めた事が問題視され、朝廷からも拒否されました。
さらに、政義は無許可で大番役を降り、新田荘に戻ると出家し、幕府への出仕も拒否した事から所領の一部と新田一族の惣領職も没収され、一地方御家人に没落しています。
居館は新田宗家の菩提寺として自ら開創した円福寺付近とされ、安政4年に木崎宿の画家角田岱岳が「往古之図」を模写した「円福寺一山絵図」に描かれた「出丸要害之地」がその候補地の一つとされます。
「出丸要害之地」は大凡当地と目される一方、円福寺北東に隣接する方二町(約200m四方)の区画とする説もあります。
新田惣領家職は新田一族の得川義季と岩松土時兼が半分ずつ担うようになり、実権を失いましたが、義季の跡を継いだ世良田頼氏は二月騒動に連座し佐渡に流された事で、政義の嫡男新田政氏が惣領家の復権を果たしています。
政氏の孫に当たる新田朝氏は、鎌倉幕府の討幕と南北朝時代に南朝方の有力武将として名を馳せた新田義貞と脇屋義助の父親である事から台源氏館が義貞と義助の生誕地との説があります。
ただし、義貞の生誕地については反町館や世良田新田館、榛名町里見郷説等があり定瀬地は定まっています。
元徳年間に義貞は台源氏館は手狭になった事から新たなに反町館を築き本拠地を遷したとされます。
現在は宅地化された為、殆どの遺構が失われた為、殆どの遺構が失われ、土塁跡と思われる若干の土盛に上に石碑が建立されるのみとなっています。
群馬県:城郭・再生リスト
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