・宿阿内城は文明年間に三輪右丹によって築かれたと伝えられています。
下川淵村誌によると三輪右丹は武勇に優れ宿阿内城を拠点に周囲にその威を誇っていましたが、その後、後裔は甲斐武田家に従った事から、越後上杉家の関東侵攻により攻め滅ぼされたとされます。
前橋市亀里町竜門に在する三輪氏は三輪右丹一族の子孫と云われ、三之丸跡に鎮座している女躯神社の参道を出た表通りに延徳年間に建立された石燈籠は宿阿内城の関係者が奉納したものと推定されています。
一方、宿阿内城は文明8年に発生した長尾景春の乱の舞台でもあります。
長尾景春は白井長尾家5代目当主で、祖父の長尾景仲が山内上杉家の家宰を務めて以来、筆頭家老となり、父親の長尾景信も家宰を務めたものの、景春が家督を継いだ際、家宰の就任は見送られた事から、山内上杉家の当主である上杉顕定と、家宰となった叔父の長尾忠景を恨むようになりました。
景春は文明7年に武蔵国鉢形城に立て籠もると文明8年6月に同城で挙兵、五十子陣に駐留していた上杉顕定勢を取り囲んでいます。
山内上杉勢の主力である上杉政憲と太田道灌は今川家の内紛仲裁の為、駿河国に入っていた為、援軍が得られなかった事から、文明9年に顕定は上杉定正と共に五十子陣を放棄し、宿阿内城まで撤退しています。
景春は山内上杉家や扇谷上杉家に対してよく思っていない、豊島泰経や豊島泰明、千葉考胤、那須明資、成田正等と連携し戦線を拡大させています。
顕定と定正は宿阿内城で、戦局を見守っていましたが、太田道灌が各地で勝利を重ね武蔵国に入ると合流し五十子陣の奪還に成功、景春は守勢に転じています。
その後は三輪氏が居城として利用したと推定されますが、越後上杉家によって攻められると領主格からは没落、宿阿内城も廃城となり一族は帰農したと思われます。
宿阿内城の本丸と二之丸は輪郭式で、その南側に三之丸、北側には出丸として機能したと思われる北郭が配され、城下を取り囲むように外堀が廻され、東側に流れる瑞気川が天然の堀に見立てられていたようです。
現在は多くの遺構は失われていますが、三之丸跡に鎮座している女躯神社の境内周辺の高低差や、三之丸東側の土塁の一部が残されています。
群馬県:城郭・再生リスト
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