・阿岨城は戦国時代に沼田氏によって築かれたと推定される中世の城郭で、天正元年に沼田顕泰が側室「ゆのみ」の兄である金子美濃守泰清を配しています。
金子泰清は元々、上野国利根郡追貝村の名主階級だったものの、妹が顕泰に輿入れした事から一族衆として重用されたようで、沼田家の「執権」を担いました。
その後、沼田氏家中は混乱を極めたようで、越後上杉方の顕泰と沼田家の家督を継いだものの小田原北条氏と通じた沼田弥七郎朝憲と激しく対立しました。
金子泰清は妹と顕泰の子供で、自身の甥に当たる沼田景義を擁立する為に弥七郎朝憲の暗殺を画策したとも云われています。
しかし、沼田家の没落は避けられず、顕泰、景義は蘆名家を頼って会津に落ち延びたとされ、泰清は越後上杉家に従い当地に留まっています。
天正6年に上杉謙信が死去すると、この後継を巡り「御館の乱」が発生、この間隙を突いて小田原北条氏が上野国を席捲し、泰清もこれに従っています。
泰清は猪俣邦憲や藤吉信吉等と共に沼田城の城代に命じられており、沼田城に赴任しています。
この頃、上杉景勝と武田勝頼の同盟が成立しており、勝頼の上野国支配を景勝は黙認した事から勝頼は家臣である真田昌幸に命じて沼田領に侵攻しています。
これにより泰清は真田家に従ったようで、天正8年には手勢500を預けられ阿岨城の守備を命じられています。
天正9年に沼田景義が沼田城の奪還の為、当地まで侵攻し、泰清にも助力を請いましたが、逆に沼田城に誘い出され謀殺されたと伝えられています。
天正10年には小田原北条氏軍3千の夜襲を受け、阿岨城は陥落、泰清は崖を下って沼田の海王山金剛院まで撤退しています。
周辺の国人領主や土豪達の多くは北条家に従ったようで、天正某年の阿久沢能登守宛に北条家が発給した朱印状には「先段長井坂番与申遣候へ共、彼地相止、阿曾之寄居番二定候、参拾人自身招連、来月五日阿曾へ打着、六日二番所請取」と記されています。
又、天正15年に赤堀又太郎宛に発給された北条氏直の書状には「阿曾の地番肝要ノ巷二候間」と記されています。
上記の古文書から北条家の支配体制では阿久沢氏と赤堀氏が阿岨城の城番だった事が窺えます。
一方、泰清は引き続き真田家に従っていましたが、天正17年、又は天正18年に昌幸に疎まれ吾妻領厚田村に隠棲したと伝えられています。
阿岨城は沼田城下を一望出来る橡久保原の崖端に築かれた崖端城で、北西方向は利根川で削られた急峻な崖地、残りの3方は2重の堀と土塁で囲っていたようです。
当時は城域を広く沼田城の重要な支城の一つだったようですが、法制方向の崖地が崩れ現在は土塁と堀の一部だけが崩れ現在は土塁と堀の一部だけが残されています。
阿岨城の城址は貴重な事から昭和村指定史跡に指定されています。
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