・中村城が何時頃築城されたのかは不詳で、一般的には戦国時代に築かれたと推定されています。
城主についても明確な資料には現れず発掘調査でも城主に繋がるような遺物の発見には至っておりません。
一方、伝承によると中村城は中村右馬之丞の居城で武田勝頼に攻められ落城したと伝えられています。
伝承が正しいとすると、天正8年に武田勝頼が上野国に侵攻し、中村城の近隣にある、赤城山南麓の大胡城、山上城、伊勢崎城、膳城等が次々と攻略されており、中村城もその中の一つだったと推定されます。
その時、右馬之丞は城から撃って出ていたようで、中村城の留守を任された娘の早苗姫が残された家臣と共に武田勢の猛攻に対して奮戦したものの、最後は力尽き落城、姫も討死したとの伝説は伝えられています。
明治時代に入り、住居達は姫の御霊を慰める為に城跡の一角には姫塚が建立されています。
その後、中村一族は帰農したようで、粕川村膳や新里村小林に在住の中村姓のお宅は中村城主一族の後裔とも云われています。
城域は200m四方と推定され、本丸を中心に南曲輪と北曲輪があり、南曲輪は本丸よりやや低く、幅約40mの鉤型で本丸を囲い、本丸との間は堀が設けられ、その中央にある虎口で本丸との出入りを可能としていました。
北曲輪は帯に似た幅の狭い曲輪で、本丸の北面と東面の半分程度をカバーしていました。
又、周囲を幅5m、深さ2m程の堀と土塁で囲い、粕川とその支流が天然の外堀に見立てられていたようです。北西方向には屏風折れが見られ横矢掛かりの攻撃が出来るような工夫が見られます。
中村城の城跡には現在でも北面と西面の一部の土塁と堀が明瞭に残され、貴重な事から前橋市指定史跡に指定されています。
群馬県:城郭・再生リスト
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