・大友城が何時頃築城されたのかは判りませんが、長尾景俊の居城だったとされ、景俊は出家すると入道長建を号したそうです。
長尾景俊がどのような人物かは判りませんが、大友城の本丸付近に境内を構えている長見寺の開基者とされます。
長見寺は鎌倉時代に東覚院と呼ばれていたとの由緒を伝えている事から、これ等が事実とすると、長尾景俊はこれ以前の人物という事となり、大友城も鎌倉時代には既に存在していた事になります。
南北朝時代に総社長尾家の祖とされる長尾忠房が長見寺を長尾家一族の祈願所に定めている事から大友城が総社長尾家の支配下に本城である蒼海城の有力な支城だった事が窺えます。
文明年間には長尾孫六左衛門忠景が長見寺を中興している事から大友城と強く関係があったと思われます。
忠景は武蔵国守護代や山内上杉家の要職を務め、上杉顕定方の有力武将として各地を転戦しています。
戦国時代になると長尾家は上杉謙信に従い、永禄4年に編纂された「関東幕注文」の「総社衆」の最後に長尾能登守と記されている事から、当時の高津長尾家の長尾景綱が惣領家だった事が窺えます。
景綱が死去すると、長見寺で荼毘に付され、その火葬場に薬師堂が造営された事から長見焼場の薬師と呼ばれるようになったと伝えられています。
永禄9年には武田信玄の侵攻により蒼海城は落城、大友城も命運を共にしたと思われます。
大友城は二重の堀と土塁に囲われた平城だったとされ、城意気は長見寺から日の出公園を含む一帯で、滝川が天然の外堀に見立てていたようです。
近年まで土塁の一部があったようですが、現在は多くが住宅街等の開発が進み長見寺の東側交差点に僅かな土盛が残すのみとなっています。
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