・矢田陣屋の前身とされる矢田城は築城年は不詳ですが中世に、当地の土豪である小林氏が居城として築いたとされます。
小林氏については不明な部分が多いですが、一般的には桓武平氏秩父氏流高山党とされ、高山重遠の3男である五郎重幸が、上野国緑野郡小林郷(現在の群馬県藤岡市小林)を本貫地とした事から「小林」姓を掲げたとされます。
南北朝時代には山名氏の執事だった事から当時はかなり有力者だったと思われます。
小林氏は戦国時代にはさらに吉井地域にも版図を広げたようで、長根城の城主で、上杉家に従った小林筑前守重秀の弟である小林重秀の子供の小林政久が矢田城の城主だったとも云われています。
小林氏は関東管領上杉家が没落すると武田家に従い、天正18年に武田家が滅亡し徳川家康の関東移封に伴い管沼定利が吉井領2万石で入封すると、管沼氏の家臣となっています。
慶長15年に定利の養子となった管沼忠政は実家の奥平家を継ぐ為に、奥平姓に復姓し加納藩主になった為、吉井藩は廃藩となりましたが、小林氏は加納藩には随行せず当地に留まったと思われます。
延宝2年に松平信平が上野国・上総国内7千石の領主になると、当時の当主だった小林正近は当地の群奉行となっています。
宝永6年に松平信清が多胡郡等3千石が加増され合計1万石となり諸侯に列すると矢田城の跡地に陣屋を構え矢田藩を立藩、当時の当主だった小林正甫は松平家の在所家老を務めています。
宝暦3年に松平信友が陣屋を矢田から吉井に戻すと矢田陣屋は廃され、当時の当主小林正昭は陣屋の隣地に代官所を設け、その代官を務めています。
矢田陣屋は南北約130m、東西約100m、周囲を高土塁と空堀で囲い、西側には虎口の大手門があったと推定されます。
現在も土塁と堀の一部が残され、当時の雰囲気が感じられます。
群馬県:城郭・再生リスト
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