・名胡桃城は明応元年に当地を支配していた沼田氏の一族である名胡桃景冬が築いたのが始まりとされます。
沼田氏の出自は不詳ですが、戦国時代まで当地を支配した沼田氏は三浦泰村の次男三浦景泰とされ、宝治合戦で三浦一族で多くが討死、自刃する中、当地まで落ち延び地名に因み「沼田」姓に改姓したと云われています。
三浦氏系沼田家6代目当主沼田景久は三男の景冬を当地に配しており、景冬は名胡桃館(城)を当地に築くと地名に因み「名胡桃」姓を掲げました。
天文元年に沼田顕泰が沼田城を築き居城を幕巌城から沼田城に遷すと地政学的に要衝にあった名胡桃城は有力な支城として重要視されました。
永禄元年に沼田家の内紛に乗じて小田原北条氏に従った厩橋城主長野氏の侵攻を受け沼田城は落城、沼田城には北条康元が配された為、名胡桃城もその支配下に入ったと思われます。
永禄4年に行われた上杉謙信の関東侵攻に沼田顕泰も従軍しており、当地方から北条勢を一掃し上杉氏の支配下となっています。天正6年に上杉謙信が死去すると、越後国内で後継者争いが激化、当地も混乱し北条氏の侵攻を許しています。
御館の乱で上杉景勝に与した事で上野国支配を黙認された武田勝頼は家臣である真田昌幸に命じて、武田勢を侵攻させ、天正7年には名胡桃城を落とし、沼田城攻略の拠点としています。天正8年に昌幸は沼田城を落とすと、名胡桃城には重臣である鈴木主水重則を配しています。
その後も沼田領を巡り真田氏と北条氏は攻防戦を繰り広げましたが、天正17年に豊臣秀吉の裁定により、沼田城側の戸奈川以東を北条氏領、名胡桃城側の利根川以西を真田氏に定めています。
しかし、沼田城の城代として入った北条家家臣猪俣邦憲は、名胡桃城の城代鈴木重則の家臣中山九郎兵衛と通じ、偽の書状で重則を真田家の居城上田城に向かわせ、その間隙を突いて名胡桃城を占拠しています。重則は騙された自分を恥じ正覚寺で自刃、真田昌幸は北条家の惣無事令違反として豊臣秀吉に訴えています。
秀吉は北条家に対して猪俣邦憲の処罰と名胡桃城と沼田城の返却を要求したものの拒否した事から、北条家討伐が決定的となり小田原の役が勃発しています。小田原北条家型が敗北すると、沼田領は真田家に与えられ、戦略的な意味を失った名胡桃城は廃城となっています。
名胡桃城は利根川と赤谷川の合流地点の右岸段丘の突き出した半島状のっ地形に築かれた連郭式の城郭で、南側から外郭、三之郭、二之郭、主郭、ささ郭と連なり、巧みに設けられた土塁や空堀で区画し、要所には馬出や虎口があったと推定されています。
農地利用された事もあり、土塁等の遺構は消滅しましたが、近年はドラマの撮影等により復元され観光地化されています。名胡桃城の跡地は貴重な事から群馬県指定史跡に指定されています。
群馬県:城郭・再生リスト
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