・麻場城は白倉成氏が文明年間に築城したとされます。
白倉氏は当地を本拠地として勢力を広げ、小幡氏、安中氏、倉賀野氏、桐生氏、由良氏、山上氏、沼田氏と共に上州八家に数えられました。
白倉氏はその後、山内上杉家が関東管領、上野国守護職になると、それに従い、上杉四宿老の1人に数えられています。
天正21年、主家である上杉憲政は小田原北条氏の台頭に抗えず居城の平井城を退去し長尾景虎を頼り越後国に落ち延び、当寺の麻場城の城主だった白倉重佐も憲政に従い越後に落ち延びた事から、麻場城も北条方に接収されたと思われます。
永禄3年に景虎は関東地方に大規模な遠征を行い、北条方の小川城、名胡桃城、明間城、沼田城、岩下城、白井城、那波城、厩橋城等を次々と落とし、道佐もこれに従った為、麻場城の城主に復権しています。
しかし、景虎は小田原城を攻めあぐね、武田信玄から背後を脅かされた為、永禄4年に撤去を余儀なくされました。
上杉方の長野氏が守る箕輪城が落城すると、道佐は抗う事が出来ず武田家に転じ、武田家の重臣である内藤家の配下となっています。
天正10年に武田家が滅びると、織田家の重臣滝川一益が上野国に配された為、当時の城主白倉重家も一益に従っています。
しかし、同年に本能寺の変が発生すると後ろ盾を失った滝川勢は大きく動揺し、神流川の戦いで北条氏直に大敗を喫し、重家模参陣したものの敗北した事からその後は北条家に従っています。
天正18年に発生した小田原の役の際、重家は小田原城に籠り、麻場城には弟である白倉重高が城将として守りましたが、豊臣秀吉に従った前田利家や上杉景勝等に攻められ落城、白倉氏は没落し、麻場城も廃城となっています。
麻場城は甘楽町の東北丘陵の舌状台地の先端部に築かれた丘城で、東方約500m先にある仁井屋城と攻防一体の別城一郭の形態だったとされます。
本丸は発掘調査の結果、南側約60m、北側約42m、南北約54m規模で台形状の平面で構成され、周囲を土塁と空堀が廻っていた事が確認されています。
現在は土塁や空堀が復元、本丸周辺を麻場城址公園として整備されています。麻場城の城跡は貴重な事から甘楽町指定史跡に指定されています。
群馬県:城郭・再生リスト
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