・上野城は鎌倉時代後期に築城されたとも云われ、城址を所有している吉田家の屋敷内には延文4年、貞治6年、永和2年銘のある板碑が建立されており、年号が北朝が採用したものである事から城主は南北朝時代に、北朝方に与していた事が窺えます。
「上野国群馬郡箕輪軍記」によると、永禄6年に武田信玄の上野国侵攻により落城した城の中に上野城が記されており、当城の事とも云われています。
別説としては小幡の八幡山砦の事を上ノ城、長畝砦の事を下ノ城と呼んでいた事から上野城は八幡山砦の事との説もあります。
その後どのように利用されたのかは判りませんが、江戸時代に入ると周辺が天領に組み込まれた為、幕府から代官として深谷喜左衛門が派遣され代官屋敷(上野蔵屋敷)として整備されたと思われます。
天和2年に堀田豊前守正休が上野国の多胡郡、緑野郡、武蔵国の埼玉郡内1万石で吉井藩が立藩すると、吉井に陣屋を構えた事から代官屋敷(上野蔵屋敷)は廃止されています。
堀田正休は元禄11年に近江宮川藩に移封になった事から吉井藩は廃藩、陣屋も廃され再び天領となっています。
当地は旗本の河野氏の采配地となり、名主である吉田家が河野家に代わり上野蔵屋敷で明治維新まで当地を管理しています。
上野城は一辺70m程の正方形をした単郭の平城で、周囲を土塁と堀で囲っており、現在でも西土塁と来た土塁半分、東土塁に一部が残されています。
西土塁は長さ66.5m、上幅2.2〜2.6m、下幅8〜8.5m、高さ2.5〜2.7m、西濠の長さは約80m、濠幅5.7〜6.8m。
北土塁の長さ約35m、濠幅は7〜10m。東土塁は長さ約10m、幅約5m、高さ2〜2.5m。
吉田の土塁・濠跡は貴重な事から甘楽町指定史跡に指定されています。
群馬県:城郭・再生リスト
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