・矢田堀城の築城された地は伊勢神宮の荘園の一つ薗田御厨と須永御厨があった所とされ、薗田御厨は現在の太田市里田韮川地区から桐生市広沢地区、須永御厨は桐生市川内地区から大間々町東部付近が範囲とされます。
薗田御厨の厨司は藤原秀郷流の御家人七郎成実が上野国山田郷薗田村を本貫として地名に因み「薗田」姓を掲げその後裔が歴任しています。
成実の孫である薗田成家は正治2年に京都大番役として上洛した際に浄土宗の開祖である法然上人から教化を受け出家し、法名 智明を名乗ると6年間に渡る厳しい修行の末、元久2年に上野国に帰国しています。
智明は酒長の御厨小倉村に庵室を構えると、ここを拠点に当地域の浄土宗布教に尽力しています。
矢田堀城の北端の土塁上にある「矢田堀勘兵衛屋敷の名号角塔婆」は五基の名号角塔婆から構成され、その内二基には「正慶二年 為藤原朝臣淡路十郎信光女子也」、「正和五年 為沙彌明海霊出離生也」と刻まれており、鎌倉時代後期から室町時代初期にかけて薗田氏一門が供養塔として建立したと推定されています。
その為、矢田堀城は薗田氏一門の居館を城郭として拡張整備した可能性があります。
薗田氏は長く独立を保ったものの16世紀初頭頃に桐生城主桐生重綱に敗れ、小倉鹿田の地を奪われた事から、金山城の城主横瀬国繁に救援を求めました。
国繁の増援により旧領を取り戻しましたが、その後は横瀬氏、由良氏一門の泉氏が配されたと思われます。
矢田堀城の城主は泉基国、泉基茂(繁)が知られていますが、基国には子供が居なかった事から横瀬国経の次男である基茂(繁)が養子となり泉家の名跡を継いでいます。
基茂(繁)の子供、西城殿泉伊予守繁俊は永禄2年に菩提寺となる瑞岩寺を中興、中興開基となっており、慶長2年に死去すると当寺に葬られています。
以上の事から察すると、泉氏は天正18年に由良氏が常陸国牛久に移封になった際、それには従わず当地に留まった可能性があります。
矢田堀城は一変150m程、大凡正方形の外郭とその内側に正方形の内郭の二郭で構成され周囲を堀と土塁で囲い、南側には大手筋と見られる虎口が配されていました。
諏訪神社境内付近が内郭跡とされ、周囲には土塁跡が散見されます。
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