・三ツ木城が位置する三ッ木村が何時頃成立したのかは判りませんが、仁安3年に発布された新田義重譲状と新田義重置文によると、新田家の祖である源義重が正妻を介して次郎義季に譲渡した空閑一九郷の一つに「三木」の地名が見られる事から、平安時代後期には既に存在していた事が窺えます。
その後も当地は新田家やその一族である岩松氏の所領でしたが、戦国時代に岩松氏の家臣筋である横瀬氏が下克上により権力を奪い取り、岩松氏の居城だった金山城の城主になると、当地も支配下に入った為、家臣の根岸肥後守三郎繁道を配しています。
根岸繁道は、市内にある武士城の城主根岸三河守頼行の弟とされ、当地に三木塁を築いて居城としています。
根岸家は常陸国筑波郡小田を本貫とした小田大炊頭顕家の後裔の一族とされ、備前守家道の代で武蔵国深谷根岸を本貫とした事から、地名に因み「根岸」姓を掲げたとされます。
繁道は当初、桐生氏に従ったようですが、元亀4年に由良(横瀬)成繁に攻められ没落した為、その後は由良(横瀬)氏に従ったようです。
天正11年、三郎繁道は金山城に侵攻する小田原北条家に対し、兄の頼行や一族の長門守頼真、三九郎、三弥と共に金山城の籠城戦に参加しますが、天正13年には由良(横瀬)氏は開城に応じ、その後は北条氏に従っています。
天正18年に発生した小田原の役でも北条方に与し、敗北後一族は四散した事から三ツ木城も廃城になったと思われます。
三ツ木城の本丸は東西30間、南北40間、東側と南側に虎口があり、さらに本丸を取り囲むように配された二之丸には四方それぞれに虎口があったと推定され本丸には高さ2間2尺の土塁、深さ3間の堀が囲っていたとされます。
三ツ木城本丸跡に境内を構えている真福寺は天正年間に繁道が姉である永寿尼の為に改葬したと伝わる真言宗豊山派の寺院です。
伝承によると永寿尼は三ツ木城が廃城になった後も繁道から建てて貰った草庵に居残り、生涯を仏門に捧げ、寛永3年に死去すると、境内に葬られ法号真福尼に因み寺号を真福寺に改称したそうです。境内には繁道のものと伝わる五輪塔が建立されています。
近年まで真福寺の境内には土塁や堀跡等が残されていたようですが、現在は三ツ木神社が鎮座している事で破却を免れた北西隅の土塁以外は失われています。
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