・八幡原館は建久5年に安達盛長によって築かれたと伝えられています。
安達盛長は小野田兼広、又は小野田兼盛の子供とも云われ、三河国に本拠地を持つ小野田氏の分流とされますが、各支族の家系図が複数あり、それぞれ異なる為、異説も多くあります。
源頼朝が伊豆に流されていた時代から従っていた側近とされ、頼朝と北条政子の仲を取り持ったとも云われています。
盛長の奥方である丹後内侍は比企掃部允と比企尼の長女で、比企尼は源頼朝の乳母だった関係から、盛長は頼朝から厚く信頼されていたと思われます。
治承4年に石橋山の戦いでは敗北したものの頼朝の使者として関東武士との取次を行い重きを成しています。
元暦元年頃から上野国の奉公人となり、文治5年に発生した奥州合戦にも従軍、大功を挙げ、陸奥国安達郡と出羽国大曽根荘を賜り、地名に因み「安達」姓を掲げています。
正治元年に頼朝が死去すると、出家、蓮西を名乗り、2代将軍源頼家の宿老として十三人の合議制の1人に抜擢されています。
其の頃、上野国守護は比企能員がその職を担っていましたが、娘の若狭局が2代将軍源頼家の妾となり、次期惣領と目された一幡を得て外戚関係だった事もあり建仁3年に源実朝を擁立する北条時政を激しく対立、結局、時政方の謀略により暗殺されると、比企一族も悉く討ち取られています。
これにより、上野国守護は盛長の嫡男である安達景盛が就任した為、八幡原館は上野国守護所として利用された可能性があります。
しかし、景盛の孫の安達泰盛は政敵だった平頼綱の讒言を真に受けた執権北条貞時の命で大軍を差し向けられ、泰盛をはじめ安達一族500名が討死、又は自刃し悉く果て滅亡しています。
八幡原館の動向は不詳ですが、安達家の滅亡により廃棄されたと思われます。
八幡原館は井野川の東岸の段丘上に築かれ、主郭の周囲を東西に細長い二之郭が北側以外の三方を取り囲むように配しています。堀と土塁は二重に設けられ、井野川を天然の外堀に見立ていたようです。
現在は主郭の南側と西側の堀と土塁の一部が残され往時が偲ばれます。
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