・赤岩城は鎌倉時代に佐貫城の城主佐貫太郎資綱の子供である次郎太郎嗣綱が赤岩の地に配された際、居城として築いたのが始まりとされます。
赤岩の地名の由来は浅間山が噴火した際に、真っ赤な岩が利根川で当地まで流されたとも、天応年間に巡錫で当地を訪れた旅僧が夕陽を浴びて真っ赤に染まった巌に神秘を感じ稲荷神を感状したからとも云われています。
嗣綱は地名に因み「赤岩」姓を掲げたとも云われますが、跡を継いだ嗣綱の子供である文治四郎広嗣は前橋の青柳城を築き本城を遷し、後裔は「青柳」姓を名乗ったとも云われています。
相撲奉行人としても知られ、建久2年に頼朝が三浦義隅の邸宅に訪れた際に三浦氏との相撲の勝負を披露し、建久3年には永福寺の池石を畠山重忠、大井実春等と共に運搬し称賛されています。
広嗣は治承4年に足利忠綱に従軍し以仁王、源頼政の追討戦いに参加、元暦元年の一の谷の戦いの際には源範頼軍に従軍、文治5年に行われた奥州合戦では源頼朝に従軍し鎌倉幕府の御家人として地位を確立しています。
その後の青柳氏の動向は判りませんが、室町時代になると青柳城の城主は赤井氏が勤め、館林城を築いたとされる赤井照光は遺言で、赤岩城の城跡に境内を構えている赤岩山光恩寺は先祖の菩提寺であるから、境内にある堂山(赤岩堂山古墳)に埋葬して欲しいと残し、実際に墓碑が建立されています。
これらが事実であるとすれば、佐貫氏から赤岩、青柳、赤井と順次に姓を改めたのかもしれません。
赤岩城が何時頃廃城になったのかは不詳ですが、光恩寺が永享12年の結城合戦の兵火で大きな被害を受けた際、本尊の阿弥陀三尊像は自ら本堂から脱出し焼失を免れ「堂山焼け出しの弥陀」との別称がある事から、室町時代には既に廃城となり、光恩寺が境内を構えていた事が窺えます。
赤岩城の規模も不明な部分が多いですが大凡、光恩寺の境内に被るとされ、周囲を堀と土塁で囲った単郭、あるいは東に複郭を設けた平城で、墳丘長さ約90m、後円部径48m、前方部幅72m、後円部高さ10.4m、前方部高さ6.6mの赤岩堂山古墳(前方後方墳)を城郭に取り込む櫓台、又は物見台として利用したとされます。
現在は境内正面の堀跡と本堂背後の堀と土塁の一部、赤岩堂山古墳(桜山1号墳)、桜山2号墳が残されています。
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