・和田下之城は永禄11年に和田業繁が本城である和田城として築いたのが始まりとされます。
和田氏は桓武平氏の一族である和田義盛の後裔と伝わる氏族で、和田氏の乱と三浦氏の乱で敗北した事で一族が悉く討死や自刃した中で、和田義盛の6男、又は7男とされる和田義信が上野国に逃れ、上野国和田氏の祖となったとされます。
その後、義信の弟とされる和田義国が当主になったようで、義国を祖とする説もあります。
寛喜2年に赤坂庄に遷り、正信の代で本拠地として整備が行われ、信高の代で地名を赤坂から和田に改めています。
南北朝時代には南朝方の新田氏に従い、応安3年には和田高種、重信父子が寺尾館に尹良親王と宗良親王を迎えています。
室町時代には関東管領上杉家に従い、応永2年、又は生長元年に和田城を築城しています。
和田業繁は箕輪城主長野業正の娘を奥方に迎え、関東管領上杉家の没落後は長野家に従っていたものの、永禄4年以降、武田信玄の上野国侵攻が本格化すると武田家に従っています。
和田城は上杉方の厩橋城や長野方の箕輪城に近かった事から武田家の支援を受け拡張整備され、その甲斐あって永禄9年には箕輪城を攻略し周辺が武田領となっています。
しかし、今度は小田原北条氏との対立が顕著となり、和田城の防衛力強化の一環として永禄11年に支城となる和田下之城が築かれ、業繁は弟である和田正盛を城代として配しています。
正盛は永禄12年に武田信玄から倉賀野領二千七百貫の知行を安堵されており、ひとかどの武将だった事が窺えます。
その為、和田下之城は単なる支城というより正盛家の居城とも言え、堀や土塁は二重三重に設けられ複数の郭が拡張整備されています。
天正12年に武田家が滅亡すると、正盛は隠居し、跡を継いだ正直は織田家の家臣滝川一益に従ったものの、同時に本能寺の変が勃発し織田信長が落命した事で、後ろ盾を失った一益は自領に撤退した為、その後は小田原北条氏に従っています。
天正18年に発生した小田原の役で正直は引き続き北条家に従っており、当城の動向は記録が無く不詳ですが本城である和田城は豊臣方の前田利家隊の侵攻により落城している事から和田下之城も落城又は開城に応じたと思われます。
和田下之城は本丸を中心とした環郭式の平城で、二重から三重の堀と土塁に囲われ、入り組んだ複数の郭が配されています。
本丸の南側以外の三方には細長い郭があり、粕沢川を天然の外堀に見立ていたようです。
現在は住宅街として開発された為、土塁や堀等の目立った遺構は失われたものの、堀の跡は水路兼道路になっている所が散見出来ます。
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