・内出城は観応年間に秋間氏によって築かれたのが始まりと伝えられています。
当時の岩櫃城の城主斉藤太郎憲行の家老が秋間刑部左衛門泰則とされ内出城は岩櫃城の支城として築かれたと思われます。
郡内旧記によると南北朝時代に岩櫃城の城主斎藤行盛が北朝方に与した為、南朝方の猛攻により岩櫃城は落城、行盛の嫡子である千王丸を守りながら岩櫃城を脱出し、観応元年には荒尾金剛兵衛行貞や金剛左衛門清永、榛名山の僧兵等の協力を得て岩櫃城を強襲しています。
しかし、頑強な抵抗により落城には至らず、榛名山に撤退、その後は千王丸の母方の実家である安中城主斎藤越前守を頼り、さらに関東管領上杉憲顕の知見を得て延文2年に岩櫃城の奪還に成功しています。泰則はこの功績により太田郷が与えられ内出城が築かれたとされます。
長禄年間に当時の城主秋間備前守泰近が榛名神社に参拝した際、領地が隣接する箕輪城の城主長野信濃守景重とトラブルとなり、それが遠因となり、長野勢が内出城を急襲、泰近も奮戦したものの、討死し内出城も落城しています。
一方、加沢記によると、秋間家は本家筋の吾妻家の家老として、実質上吾妻家の運営を任されると、内出城の二ノ曲輪に屋敷を構え川南周辺の地頭として台頭してきた塩谷氏と大野氏と対峙するようになったとされます。
文明年間に対立が激化すると秋間氏は大野氏に敗北、その配下になると、さらに大野氏は塩谷氏も破り当地域を統一し岩櫃城に入っています。
その後、大野氏の重臣である斎藤憲次が謀反を起し岩櫃城を襲撃、大野氏一族は悉く自刃しています。秋間氏は斎藤家に従う事で内出城の城主として復権したようですが、永禄8年に武田家の家臣真田幸隆に襲撃され斎藤家が滅ぼされると没落したと見られています。
内出城は吾妻川右岸に位置し、城域は東西約400m、南北約100m、北西隅の本丸を起点として東側に向かって3郭、4郭、5郭、6郭と続き、本丸と3郭の南側に2郭が配されています。各郭の間には深い堀で区画しており、北側の吾妻川と南側のその支流が天然の堀に見立てられていたと思われます。
現在は住宅地と畑地となっていますが、一見して城跡と判る地形や、一部の土塁、空堀の遺構等が残されています。
群馬県:城郭・再生リスト
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