・管沼城は文禄元年に管沼治郎右衛門定清が築いたと伝わる中世の城郭です。
管沼定清の出自は不詳ですが、天正18年徳川家康の関東移封に従った管沼一族で、田峯管沼氏の管沼定利が上野国吉井2万石、野田管沼氏の管沼定盈が上野国阿保1万石が与えられている事から定清も同様に上野国内に領内が与えられたろ推定されています(阿保の正確の場所は不明)。
定清の石高についても不詳で、記録に残っていない事から徳川家の直臣で、代官のような立場で当地に采配を任された程度だった可能性もあります。慶長5年に発生した関ヶ原の戦いで管沼定清は東軍方として行動したようですが、その後の記録に定清の名前が記されていない事から消息不明となっています。
城跡に境内を構えている海雲寺は開創年は不詳ですが、元々は郷原東下山にあった正蓮精舎を管沼家の家臣が、定清の菩提を弔う為に現在地に遷し甘楽郡妙義町の陽雲寺八世天徳寛隆大和尚を招いて開山、寺号は定清の戒名である「福聚院殿海雲玄智大居士」に因むもので当寺の開基者となっています。
江戸時代に入ると幕府から庇護され慶安2年には3代小gン徳川家光から寺領50石の朱印状を賜っています。又、観音堂には東京都世田谷区に境内を構えている豪徳寺から御霊を勧請した招福観世音菩薩(招き猫)が安置されており、信仰の対象となっています。
管沼城は碓氷川北側の比高約30m程の断崖上に築かれた崖端城で、碓氷川と南東に流れるその支流が天然の外堀に見立てられていました。その為、地形的に防衛力が弱い南側と西側に二重の土塁と空堀が設けられ、特に南側の土塁は大規模でこちら側からの攻撃を想定していたようです。
一方、東側の土塁は一部クランクしており東側からも南面の敵を攻撃出来るよう横矢掛かりとなっています。主郭の他、幅狭の郭が東側と西側に配されており、それぞれ城門が一門ずつ配置されていました。
現在でも南側と東側の一部の土塁と空堀が残されており、貴重な存在です。
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