・神保館の当地の土豪で神保植松城を本拠地とした神保氏の居館だったと推定されています。
神保氏の出自は判らない事が多いのですが、一般的には泰氏族宗朝臣の後裔が上野国多胡郡神保邑を本貫とした事から地名に因み「神保」姓を揚げたとされます。
地名は古代多郡の総鎮守だった辛科神社の所領(保)だった事に由来し、「和名抄」に記されている多胡郡辛科郷に比定されています。
鎌倉時代になると神保氏は幕府に従い御家人となり、「吾妻鏡」には神保与三や神保太郎、神保与一の名が記されています。
室町時代に入ると将軍となった足利氏に従い文和3年に発給された「足利義詮御教 案」には多胡郡地頭職として神保太郎左衛門尉の名が記されています。
戦国時代には白井長尾家に従い永禄3年に長尾景虎(後の上杉謙信)が関東に侵攻すると、白井長尾家が景虎に同調した為、景虎が作成した「関東幕注文」の「白井衆」の中に神保兵庫助「立ニ二引りやう」と記されています。
その後、武田信玄が上野国に侵攻し当地域を席捲すると武田家に従い、永禄10年に生島足島神社に奉納された武田家に忠誠を誓う起請文には西上州諸将61名の中の長根衆の1人として神保小次郎昌光の名が記されています。
その後の神保氏の経緯は判りませんが、武田家の滅亡や、本能寺の変、小田原の役等に翻弄され、領主格からは没落し、辛科神社の神官職に専念する立場になったようです。
一方、一族の一部は室町幕府の管領畠山氏に従い、越中国や能登国、紀伊国の守護代を務め、戦国時代も畠山氏の重臣として活躍しています。
神保氏館は現在の辛科神社の境内を含む120m×100mの単郭で幅7〜8m、深さ2〜3m程の堀と土塁で周囲を囲っていたと推定されています。
現在も土塁と空堀の一部が残され往時の名残が感じられます。城跡自体の指定では無いようですが辛科神社の境内は貴重な事から高崎市指定史跡に指定されています。
群馬県:城郭・再生リスト
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