・簗瀬城は存在を記している文献が無い為、何時、誰が、どの様な理由で築城したのかは不詳です。
江戸時代後期に安中藩の藩主板倉勝明が編纂した「安中志」によると建治元年4月頃に安中氏の祖である二位中納言惟基が築城したのが始まりとされ、応永6年に安中重国に代に越後国に遷った事から廃城になったとされます。
一般的には戦国時代に安中忠政が城将として配された松井城と惣領家と思われる安中忠成が居城としていた安中城の中間に位置している事から、両城の連携を図る為に安中氏関係者が築城したと推定されています。
古くから碓氷郡を領していた安中氏は桓武平氏の平野維茂の末裔とされ、上記の中納言惟基がこれに当たるようですが、資料的な根拠が無いとされます。
戦国時代に当地の領主だった安中氏は越後国から碓氷郡の野尻(安中)、松井田に移住してきた氏族とされます。
永禄4年に武田信玄の上野国侵攻の際、安中氏の安中城と松井田城の分断を図る為に、武田方によって簗瀬城の近隣に八幡平陣城が築かれたとされますが、簗瀬城との関係性は良く判っていません。
簗瀬城は現在でもかなりの規模の土塁が見られる為、武田方からしてみれば、広さも大きく変わらない簗瀬城を接収し改修、拡張した方が手っ取り早かったような印象を受けます。
一方、簗瀬城攻略の為に八幡平陣城を築城したにしては近すぎます。実際は簗瀬城と八幡平陣城の間にも郭があり、陣城というより両城が一体化した大規模な城郭だったのかも知れません。
現在の城山稲荷神社の境内が簗瀬城の本丸跡で、周囲には高い土塁で囲われ、特に北西隅の土塁は他の部分より高くなっている為、櫓台だったような印象を受けます。
南側は碓氷川、東側はその支流を天然の外堀に見立て、それ以外の西側と北側には堀が設けられていたと思われます。
本丸以外は住宅地として開発されている為正確な城域は判りませんが概ね短辺150m、長辺200m前後あり、曲輪も複数あったと推測されています。
城跡に鎮座している城山稲荷神社の開創年は不詳ですが、当初は真下家の屋敷内に鎮座し、文化元年に現在地に遷座、その後、中御門家の祈願所となり社運を隆盛しています。
現在の本殿は文化年間、拝殿は文政6年に造営された建物で、社宝として文政7年に中御門家が奉納した「紫縮緬幕」を所有しています。
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