・漆窪城が何時頃築かれたのかは判りませんが、貞享元年に前橋藩主酒井忠挙の命により編纂された「前橋風土記」によると長尾大膳が居城として利用していたと記されています。
上野国勢多郡漆窪郷は嘉吉年間頃から永禄年間頃まで長尾氏が支配しており、漆窪城の隣地に境内を構えている長桂寺は長享元年に長尾大膳長景が最大山双林寺(群馬県渋川市)から勅賜禅師宝光知証曇英彗応大和尚を招いて開創したと伝えられています。
又、永禄11年10月に長尾大膳正平繁影が長桂寺に釈迦如来像、文殊菩薩像、普賢菩薩像の三躯を奉納し、当寺の住職である前永平伝法源和尚が海岸供養したとされます。
大膳は石倉城の城主長尾左衛門尉景善の弟の長尾新五郎長景とされ、その後、長尾大膳の養子となり、家督を継ぐと大膳を襲名したと伝えられています。
長景の子供には繁景という名が見られますが、長桂寺に仏像を寄進した繁影との関係性は不詳、長景が長桂寺を開創した年と仏像が寄進された年が81年程離れている事から長景からは3代から4代程離れている可能性があります。
長景は上杉定正の家臣で文明2年に上州漆久保に入部したとの資料がある一方、石倉記によると天文3年に石倉から漆窪に遷ったと記され、上記は長桂寺の開創年に、下記は長景と繁影(繁景)の親子関係性に無理が無くなります。
漆窪城は永正5年に白井長尾伊玄から襲撃を受け落城、長景も討死しています。
永禄6年には武田信玄の上野国侵攻により武田勢から攻められ落城、当時の城主である長尾大膳景照も討死しています。
その後、後裔と思われる長尾源六郎は上杉景勝に従い、覚上公御代御書集には「天正十八年七月、景勝の武将武蔵八王子鎮将須田右衛門太夫満統、長尾源六郎・軍役六人」と記されています。
しかし、上野国甘楽郡一宮貫前神社神主小幡洋資文書には「天文廿三年十月六日、漆窪長尾源六郎一跡之勢内之村、那波為私買得、然に源六郎改易之上、彼勢内之村源六郎一跡・・・」と記されており、当時は那波郡東善養寺村枝郷清内村が宛がわれ、天文23年に改易になった為、旧領は那波氏によって買い取られた事が窺えます。
これにより、源六郎は城主格からは没落し、150石取で上杉家に仕えたものの、慶長6年に景勝の米沢移封に従わず浪人になったとされます。
以上の事から漆窪城は永禄6年に落城した時点か、天文23年に源六郎が改易になった時点に廃城になったと思われます。
漆窪城は赤城山南西麓の舌条尾根の末端に築かれた中世の城郭で、北から三之廓、本廓、二之廓、笹廓の4つの廓から構成され、それぞれ、堀切によって分けられていました。
城址碑が建立されている所が本廓の櫓台跡とされますが、現在は隣接する畑地と余り変わらない高さまで切り崩されたようです。
跡地には明らかな段差があるものの城の旧状なのか、畑地整備した結果なのか判断は難しいところです。
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