・箱田城は鎌倉時代初期頃に木曽義仲の遺児を奉じた遺臣達が当地まで落ち延び居館として設けたのが始まりとされます。
元暦元年、木曽義仲が平家を追討し京都を掌握したものの、家臣達の粗暴ぶりが目立ち始めると朝廷や民衆からの支持を失い、その隙に乗じて源頼朝の命により源範頼、義経が京都に進軍、近江国の粟津にて合戦に及び討死したとされます。
真偽は不詳ですが、当地に伝わる文献によると、義仲の遺臣である今井氏、高梨氏、根井氏、楯氏、町田氏、小野沢氏、荻原氏、望月氏、串渕氏、諸田氏等が義仲と巴御前の子供である木曾義基を奉じて上野国勢多郡北橘村に落ち延びたと記されています。
近隣に鎮座している木曽三社神社に伝わる伝承によると、粟津の戦いで源義経に敗れ木曽義仲が自刃、生き延びた遺臣の1人高梨氏が木曽まで落ち延びると、霊夢に、義仲が日頃から信仰していた岡田神社と沙田神社、阿礼神社の御霊が出現し、東国の霊地に祀って欲しいとの御告げがあったそうです。
そこで、高梨氏は遺臣達を集めて相談したところ、御告げに従う事に決まり、御神体を箱に納め、当地まで下って来ると御神体が急に重くなり動けなくなった事から聖地と悟り、社殿を設けて御神体を祀ったと伝えられています。
その後、遺臣達は箱田地衆と呼ばれる地侍として長く当地の開発に尽力したと思われます。
戦国時代には領主である白井長尾氏に従い、居館は白井長尾氏の居城である白井城の出城として相応しい城郭へと拡張整備されたと考えられます。
白井城は白井景仲の時代に築かれた事から箱田城も同年代に整備されたと思われます。この頃は永享の乱や享徳の乱が立て続けて発生しており、箱田城も重きを成したかも知れません。元和9年に白井城、真壁城、八崎城と共に廃城となっています。
箱田城は利根川の左岸の標高208m、比高60mの城山の山頂部に築かれた中世の丘城で、長辺140m、短辺75mの楕円形の単郭、周囲を土塁と空堀で囲っています。
北東方向には追手門、南西方向には搦手門が設けられ、何れも虎口となっており、北側の隅には櫓台、搦手の内側の桝形には武者溜りが配されています。
現在でも郭の形状や土塁、空堀等の遺構が残されており、貴重な事から渋川市指定史跡に指定されています。
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