・猿ヶ京城が何時頃築かれたのかは判りませんが、永禄3年に上杉謙信が当地まで進軍した際、当地の地名を「宮野」から「猿ヶ京」に改称したとされ、永禄13年に上杉輝虎(謙信)が家臣である栗林正頼宛ての書状に「猿京近辺之証人共」と記されている事から、この頃には既に築かれたと思われます。
当地は、越後国と上野国の国境に近く、謙信の関東侵攻の経路に位置していた事から軍事的に重要視され、宿営地や補給の拠点として必要不可欠な存在だったと思われます。
天正2年に尾高景家が真田家に敗北すると、一族は上杉家を頼ったと見られ、景家の子供である左馬介義隆が猿ヶ京城(宮野城)に配されています。
天正6年に謙信が死去すると、その後継を巡り、上杉景虎と上杉景勝が激しく対立し「御館の乱」が発生、景虎は小田原北条家一族だった事から景虎を支援する為に、北条勢が越後国に侵攻し、猿ヶ京城もその一環として攻め落とされています。
北条氏邦は戦功のあった片野善助に対し、「猿ヶ京の城岸にて、山口甚七郎生捕の事、比類なく候」と記した感状を発布しています。
さらに、「この段猿京番衆に申すべき旨」と記された書状が残されており、猿ヶ京城には北条方の城番が配された事が判ります。
その後、御館の乱は継続していたものの景虎は本拠地としていた御館が落城、北条家を頼り関東に落ち延びようとしたものの、味方の裏切り等もあり鮫ヶ尾城で自刃して果てています。
北条勢も関東に引き上げた為、猿ヶ京城も手薄となり天正8年には真田昌幸の家臣である海野輝幸に攻められ、落城、北条方に転じた義隆は城からの脱出に成功したものの進退極まり後関の如林寺で自刃に追い込まれています。
天正9年には武田勝頼が真田昌幸に対して「猿京用心普請以下、入手念可被申付事」と記した書状を出しており、武田方も当地を重要視していた事が窺えます。
天正10年に武田家が滅びると、上杉方が接収したようで、上野国を任された織田信長の重臣滝川一益の甥である滝川益氏が猿ヶ京城攻めを担当し敗退しています。
その後、猿ヶ京城が記録で記される事はなく、程なく廃城になったと思われます。
猿ヶ京城は東西、南の三方を断崖、北側を二重のから堀を配した崖端城で、城域は東西約180m、南北約180m、現在も土塁や空堀の一部が残され、本丸跡は宿泊施設として利用されています。
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