・天幕城が何時頃築かれたのか正確な記録はありませんが、赤堀氏が居城である赤堀城の支城として築いたとも云われています。
赤堀氏は藤原秀郷の後裔の一族とされ足利俊綱の子供である足利又太郎忠綱の弟の足利泰綱の玄孫の孫太郎教綱を祖とし、上野国赤堀郷を本貫として事から地名に因み「赤堀」姓を掲げました。
教綱の後裔が文明年間に隣接する那波宗政に敗れ、領地を奪われた事から天幕城も那波氏の支配下に入ったと思われます。
その後、桐生氏が台頭し、天幕城も桐生氏が管理したと思われますが、天正元年に由良勢に攻められ没落しています。
その後、由良氏に従った赤堀親綱は赤堀城主に復権した為、天幕城も赤堀氏に復した可能性があります。
しかし、親綱の孫の赤堀時秀の代には赤堀城から離れ、由良氏も小田原北条氏の軍門に下り、赤堀城には北条家の家臣である小菅摂津守が配されている事から天幕城も北条家の支配下に入ったと思われます。
天正18年の小田原の役により北条家が豊臣秀吉に敗れ没落すると、赤堀城は廃城になった事から天幕城も同時期に廃城になったと推定されています。
天幕城は南北約400m、東西約120m、比高約10mの低丘陵の自然地形を利用した城郭で、西側を流れる蕨沢川と北側と東側にある蕨沢川の旧河道を天然の堀に見立てています。
低丘陵の頂部に設けられた本丸を中心に西側には腰曲輪、水の手曲輪、北と東側はL型の二之丸、南側には三之丸と寺院等が配された南曲輪が縄張りされました。
現在でも天幕城の城跡は本丸の土塁や堀、堀切等の遺構が残され、貴重な事から伊勢崎市指定史跡に指定されています。
現在は「あかぼり蓮園」として整備活用され、毎年7月に開催される「あかぼり蓮園まつり」や11月に開催される「あかぼり小菊まつり」では多くの観光客が訪れています。
群馬県:城郭・再生リスト
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