・板鼻陣屋は板鼻城の北東に縄張りされた小丸田出丸に位置しています。
前身である板鼻城は伝承によると関東管領山内上杉家に従った後閑氏や長野氏が利用したとされますが、調査により戦国時代の永禄年間後期に築城されたと推定されています。
その為、永禄6年に武田信玄が上野国を侵攻し、当地域が武田方に掌握された事を受け、長野氏の居城である箕輪城攻略の拠点として築かれたと推定されています。
永禄9年に箕輪城が落城すると、永禄10年に武田家に従った新田信純が後閑氏の名跡を継、板鼻城を守備しています。
天正10年に武田家が滅ぶと、後閑氏は小田原北条氏に従った為、天正18年に発生した小田原の役では小田原城の籠城し参加し、敗北後は領主としては没落しています。
同年、徳川家康の関東移封に伴い、家康の重臣で箕輪城12万石で配された井伊直政の管理下に入ります。
慶長5年に発生した関ヶ原の戦いの功績により直政は佐和山城に移封となり代わって同じく東軍に加担し功績を挙げた里見忠重が板鼻領1万石を与えられ板鼻藩を立藩、板鼻城の小丸田丸の跡地に陣屋を構え藩庁として整備しました。
忠重は慶長6年に徳川秀忠から「忠」の字を拝領し、慶長8年に京都で行われた秀忠の将軍拝賀の式典に参列する等、秀忠とは近い存在だったと思われますが。慶長13年に職務怠慢を理由に改易となり、板鼻藩は廃藩、陣屋も廃されたようです。
寛永2年に厩橋藩(前橋藩)主で楼ちゅう等の要職を歴任した酒井忠世の長男である酒井忠行が部屋住料として板鼻領2万石が与えられ板鼻藩が立藩し、里見氏と同様に板鼻城の小丸田出丸の跡地に陣屋を構えたようです。
忠行は徳川秀忠、家光の則近として重責を担い、寛永10年には家光の御代始めに伴い1万石の加増を受けています。
寛永13年に忠世が死去した事で酒井家の家督と厩橋藩(前橋藩)の藩主を受け継ぐ事となり板鼻藩は廃藩、陣屋も廃止となり、板鼻領3万石は厩橋藩に吸収されています。
板鼻陣屋の跡地は板鼻中学校や老人福祉施設として利用された為、目立った遺構は失われましたが、陣屋門の一つが麓の称名寺の裏門として移築されています。
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