・女渕城が何時頃築城されたのかは判りませんが、履中天皇の御代に高野辺大将家成と称す公家が、無実の罪で当地に流された際の居館が当城の前身だったとの説があります。
ただし、伝説的な要素が強く、家成の3人の娘は紆余曲折を経て、長女である淵名姫は継母の弟の更級二郎兼光に殺され、次女の赤城御前は預け先に人々が全て兼光に殺され、 佐羅摩女の導きにより赤城大明神の名跡を継ぎ、三女の伊香保姫は預かり先の伊香保大夫の後見を得て上野国司を務めたと伝えられています。
平安時代の天慶年間に当地の豪族である南淵朝臣秋郷も当地を居館にしていたと云われ、善政を敷いた事から御南淵様と領民達から親しまれ、これが地名の由来になったと伝えられています。
秋郷は元慶2年に出羽秋田で俘囚達が朝廷の軋轢により蜂起した元慶の乱で上野国兵600人を率いて参陣しており、女渕城の三之丸に鎮座している女渕御霊神社は秋郷が元慶年間に勧請したと伝わる神社で城の鎮守社として歴代城主から崇敬されています。
南北朝時代に発生した観応の擾乱では足利直義方に利用され、直義が女渕城が在城していた際、上杉憲顕に攻められ、所謂「女渕の大合戦」で敗北、直義は足利まで撤退したとされます。
永禄3年に上杉謙信の関東侵攻により女渕城は上杉方に落ち、永禄4年には上杉家に従った長野顕長に与えられ、顕長は家臣である新井図書允を配しています。
永禄9年、上杉方の下総臼井城攻めで小田原北条氏方に大敗、これにより北条氏と結んだ由来成繁が当地を任され、永禄12年以降に女渕城には成繁を頼った沼田景義が城主となっています。
天正6年に上杉謙信が死去すると、その後継を巡り御館の乱が発生、上杉景勝に味方した武田勝頼が事実上上野国が上杉方から割譲された形となっています。
天正8年、景義は旧居城だった沼田城奪還の為、由良氏の支援を得て兵を挙げたものの、甲斐武田家から沼田領を任されていた真田昌幸の策略により沼田城に誘い出され謀殺されています。
天正10年、武田家が滅亡、さらに同年本能寺の変で織田信長が死去すると、当地は小田原北条氏が占拠し、女渕城には家臣である北爪氏が配されています。
天正18年の小田原の役では豊臣勢に攻められ落城、そのまま女渕城は廃城になったと推定されています。
女渕城は東西約200m、南北約450mの規模を誇り、本丸は東西約40m、南北約30m、周囲を水堀と土塁で囲っていました。本丸を中心に北曲輪、二之丸、三之丸(御霊曲輪)、龍光寺曲輪、西曲輪が配され、周囲の川が天然の外堀に見立ていたようです。
現在は城塁がコンクリートで補強されていますが、堀の形状や曲輪、一部土塁等も見ごたえがあり、旧三之丸を中心に女渕城跡公園として整備されています。女渕城の跡地は貴重な事から前橋市指定史跡に指定されています。
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