・倉賀野城は治承年間に武蔵七党の一つ児玉党の支流である秩父高俊が当地を本貫とし、地名に因み「倉賀野」姓を掲げ、居館を設けたのが始まりとされます。
高俊は治承4年に源頼朝の挙兵に呼応し石橋合戦に参陣したものの、敗北した事から当地に落ち延び倉賀野三郎を名乗ったと伝えられています。
南北朝時代の当主である倉賀野光行、又は頼行が上記の居館を城郭として拡張整備し、以後、倉賀野氏の居城として戦国時代まで且行、綱泰、近行、行信、行政、為広、尚行が城主を歴任しています。
戦国時代の倉賀野氏は金井氏や福田氏、富田氏、須田氏、田沼氏等「倉賀野十六騎」と呼ばれる有力家臣を擁する国人領主として版図を広げる一方、関東管領山内上杉家に従っていました。
大永4年から4度に渡る河越城を巡る攻防戦にも山内上杉方として参陣したようで、天文15年の5度目の戦いで北条方から奇襲されると、上杉方の戦線は瓦解し倉賀野行政も討死しています。
その後は倉賀野十六騎の協力により倉賀野城は維持され、特に筆頭と目された金井秀景が中心となり外交を行い重きを成しています。
倉賀野尚行も引き続き上杉憲政に従い、永禄3年に憲政の要請で越後の上杉謙信が関東に兵を進めると、それに従軍し永禄4年の小田原攻めにも参加しています。
憲政が関東管領職を謙信に譲渡すると、以降、尚行は謙信に従ったようです。謙信が越後国に撤兵すると、その間隙を突いて北条方と武田方から倉賀野城が襲撃されたものの、撃退に成功しています。
永禄6年にも武田信玄が再び上野国に侵攻し倉賀野城に追ったものの、落城を免れています。しかし、永禄8年の武田方の猛攻には耐え切れず、倉賀野城は落城、尚行は上杉家を頼り越後国に落ち延びています。
元亀元年、代わって倉賀野城には倉賀野氏を離反し武田方に転じていた金井秀景が入り、「倉賀野」姓を掲げ旧勢力を糾合、武田方の関東方面の重きを成しています。
天正10年に武田家が没落すると小田家家臣で関東方面を任されていた滝川一益に従い側近的な立場を確立、本能寺の変により後ろ楯を失った一益が自領に撤退した際には別れの盃を交わし、舞を舞って最後を惜しみ、安全圏となる木曽路まで付き添ったと伝えられています。
その後、秀景は北条氏に従った為、天正18年に発生した小田原の役では小田原城に入り、早川口の守備を任されたものの北条家は豊臣秀吉の開城に応じ敗北、秀景は数日後に死没しています。
一方、倉賀野城も豊臣家に従った前田利家と上杉景勝に攻められ落城、その後廃城になったと思われます。
倉賀野城は烏川左岸の河岸段丘上に位置し、城域は東西約800m、南北約400m、烏川に面した断崖沿いに本丸を設け、本丸を三方から囲うように二之丸、二之丸の東側と北側を守備するような三之丸が配されています。
さらに城下町を全体を取り囲むような総堀があり、満福寺や倉賀野神社、三光稲荷、九品寺等が設けられています。
現在は土塁等の遺構は失われたものの、一部、掘割に沿って道路が設けられたり、地形の段差等が見られます。
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