・木部氏館は16世紀初頭頃に木部範時、又は木部範次によって築かれたとされます。
木部氏は源頼朝の弟、源範頼の後裔の一族である吉見氏の一派が石見国木部荘を本貫地とした事から地名に因み「木部」姓を掲げたとされます。
室町時代に木部範時の娘が古河公保足利成氏の正室にとして輿入れした事から範時は成氏を頼って上野国に入部しています。
当初は山名城を本城としましたが、その後、木部氏館を設けて平時の時の居館としたようです。
木部家詮の代に扇谷上杉定正に従ったものの、平井城の城主上杉顕定勢に攻められ、木部氏館は落城し越後国に逃れています。
家詮の跡を継いだ木部範次は文亀3年に上野国に戻り、木部氏館を取り戻しています。範虎の時代には箕輪城の城主長野業政に従い、業政の娘を娶り一族衆として重きを成しています。
永禄6年に武田信玄が上野国侵攻を本格化すると範虎は木部氏館を放棄し箕輪城に入り籠城戦に備えています。
木部氏館は武田勢に摂取され、拠点の一つとして利用されたと見られ、永禄8年には箕輪城の有力な支城だった倉賀野城が陥落し、永禄9年には箕輪城も落城、主家である長野家は没落しています。
伝承によると、箕輪城の落城直前に範虎に奥方(業政の娘)は密かに城を脱出し、榛名湖畔に身を隠したものの箕輪城が落城し、長野家一族が悉く、自刃、又は討死した報を受け、悲観に暮れ榛名湖に入水すると龍に姿を変え湖の奥に姿を消したと伝えられています。
又、奥方の御世話をする腰元も奥方の後を追って入水すると蟹に姿を変え、龍の棲家に相応しい清水にする為に毎日湖水を掃除した事から木部に住んでいる村人達は榛名湖から採れる蟹は食さないという風習があるそうです。
その後、範虎と子供である木部貞朝は武田家に従い、天正の初め頃に近隣に木部城を築くと本城を遷し、館址には木部氏である心洞寺を山名金清寺から遷しています。
天正10年に織田・徳川連合軍の甲斐国侵攻により武田勝頼が自刃に追い込まれると範虎も殉死、貞朝は小田原北条氏に従ったものの、北条方と織田方との争いである神流川に戦いで討死したとも云われています。
木部氏館は概ね心洞寺の境内とされ、土塁の一部と木部範虎夫妻の廟等が残されています。
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