・上泉城は天文年間に大胡氏の一族である上泉氏が大胡城の支城として築かれたとされる中世の城郭です。
初代である義秀は一色義直の孫で、義秀の命により、没落していた大胡氏の名跡を継ぎ大胡氏を再興しています。居城である大胡城を築き地位が確立すると、大胡一族に大胡城を託し、其の支城である上泉城を築き、「上泉」姓を揚げました。
ただし、本家筋の一色氏に伝わる系図とは異なる点も多く、関係性は謎とされます。
義秀は中条流剣術の達人だったようで、跡を継いだ時秀は鹿島流、さらに跡を継いだ義綱は鹿島神道流を修めたとされます。
永禄年間に城主だった武蔵守信綱は上杉謙信の関東侵攻に従い、先導役を担ったとされます。
新陰流を開いたと伝わる伊勢守秀綱(武蔵守信綱)は永正5年に上泉城で生まれたとも云われ、天文24年には北条氏康に侵攻を受け開城に応じています。
その後、箕輪城の城主長野家に従い、主要な戦に従軍して功績を挙げ長野業盛からは「上野国一本槍」と評されています。
永禄9年に武田信玄の上州侵攻により箕輪城は落城、主家である長野氏業は自刃に追い込まれています。
信綱は武田家から仕官の要請があったようですが、それを断り諸国を流浪し新陰流の開祖となり、多くの剣客を育てとされます。
跡を継いだ泰綱は小田原北条氏に従ったものの、北条家は天正18年に発生した小田原の役で豊臣秀吉に敗れ没落した事から、その後は上杉景勝に従い当地を離れたと推定される為、上泉城は廃城になったと思われます。
上泉城は桃ノ木川と藤沢川が交差する舌状の土地に築かれた城郭で、現在、江戸時代に建てられた郷蔵がある高台が本丸、その南側に建てられた自治会館のある平場が二之丸、北側の畑地が三之丸となっています。
西側に位置する西林寺の境内が一之郭で、西林寺は上泉家の菩提寺だった事から境内には武蔵守信綱の墓碑が建立されています。
本丸の東側には二之郭が設けられ上泉寺があったようです。西端に位置する玉泉寺の境内が出城跡とされ、南側には土塁の一部が残されています。
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