・北新波砦の明確な築城年は不詳ですが15世紀後半から16世紀初頭頃に築かれたと推定されています。
北新波砦は早瀬川と関端川に挟まれた軍事的な要衝で、箕輪城に程近い距離に位置している事から、箕輪城の支城として城主である長野家の関係者や家臣が配されたと思われます。
永禄元年の長野家の家臣録には給人として新波新右衛門が記されている事から、16世紀半ばには既に北新波砦が存在し、新波新右衛門が砦主だった事が窺えます。
箕輪軍記によると、永禄9年に武田信玄に従った那波無理之助宗安は箕輪城と有力な支城だった鷹留城の連携を阻む為、250人の手勢を率いて夜間に高浜砦を急襲、砦将である勾坂長信は箕輪城に詰めていた事から大きな抵抗も無くこれを奪取しました。
宗安はさらに白岩山に兵を進めた事から、それを迎撃する為に安藤九郎左衛門勝道が箕輪城から出撃したものの、討ち取られています。
長野氏は後詰として青柳金王忠家や新波新左衛門を派遣し悉く撃退に成功、宗安は兵を引き上げています。
その後も箕輪城を巡る激しい攻防戦は続きますが、城内に武田勢が侵入すると多くの家臣が四散、その様を見た城主の長野右京進業盛は先祖に忠義を尽くす為に城内の持仏堂に入り、父親の位牌を参拝してから自刃、残された忠臣も後に続いたとされます。
その中に新波新右衛門に名が記されている事から義に殉じる人物だった事が窺えます。
その後、北新波砦がどうなったのかは不詳ですが、天正4年に武田勝頼が家臣である大井満安に北新波領39貫文を安堵している事から、砦が満安の本拠地として利用された可能性があります。
北新波砦は東西約75m、南北約75m、正方形の単郭の砦で、幅4〜5m、深さ1.5mの堀と高さ2m程の土塁が周囲を囲い、南側の中央には突出部が附属していました。
発掘調整では建物の跡の他、井戸跡、土鍋、常滑焼の壷、こね鉢、茶臼等の遺物が発見されています。北新波砦の跡地は貴重な事から群馬県指定史跡に指定されています。現在も土塁等の遺構が残され、周辺が北新波史跡公園として整備されています。
群馬県:城郭・再生リスト
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