・幕岩城は永正16年に沼田泰輝に寄って築かれました。
当時は小沢城が沼田家の本城でしたが、幕岩城が竣工すると、本城を当城に遷しています。
泰輝は城下町の整備にも尽力し大手筋には伊勢神宮外宮から御霊を勧請し、幕岩城の守護神となる原田神明宮を開創、原田神明宮は沼田台地に鎮座している神社の中で最古の神社とも云われています。
拝殿に置かれている賽銭桶は400年前から使用されていたもので、桶の中には小銭と共に、供物として今年取れた米や野菜等の収穫物も奉納されたと云われ、最盛期には関東一円から参拝者が訪れたそうです。
同じく幕岩城の城下に境内を構えている三光院は正中元年に沼田氏が開基した天台宗の寺院で、元々は荘田館の城下に創建されましたが、本城を荘田館から小沢城に遷すと、それに従い、幕岩城が竣工すると泰輝によって幕岩に遷されたと思われます。
永正17年に沼田景朝所謂の十一面観音像が天照寺から盗まれ、その後、三木武兵衛の尽力により発見されると三光院に安置される事になりました。
寛文3年に当時の沼田城の城主真田伊賀守信利が上記の十一面観音像を自分の祈願所に遷そうとしたところ、住職の広海がそれを断った事から当寺に圧力がかけられました。
すると、沼田城下で疫病が蔓延し、信利自身も患った事から祟りと悟り寛文4年には観音堂を造営し、石燈籠を寄進する等保護に努めると不思議と疫病も治まったと伝えられています。
その後、泰輝の跡を継いだ子供の沼田顕泰は享禄2年正月に、幕岩城の城内に3個の星が落下し、お互いは弾きあって消えるという初夢を見ました。
顕泰はこれを不吉の前兆と悟り、三光院の住職に相談すると、住職は幕岩城の丑寅(鬼門)の方角から悪鬼が災いを招き入れようとしている兆しがある事から、城を遷して当地に三星を奉斎する必要があると告げました。
顕泰は蔵内城(沼田城)の築城を計画、その一環で享禄3年に沼田家が日頃から信仰していた後閑八幡宮を現在地に遷座し、蔵内城(沼田城)の守護神としています。
天文岩塩に蔵内城(沼田城)が竣工すると顕泰は本城を遷しましたが、その後の幕岩城がどの様に利用されたのかはよく判っていないようです。
幕岩城は薄根川南岸の河岸段丘端に築かれた崖端城で、崖の突端の本丸を起点として南北に二之丸、三之丸を配する梯郭式の縄張りとなっています。
それぞれの郭は深い堀と土塁で仕切り東、西、北側の3方は薄根川によって削られた断崖となっています。現在は宅地と畑地として利用された為、土塁の一部以外は目立った遺構は失われています。
群馬県:城郭・再生リスト
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