・堀口館が何時頃築かれたのかは判りませんが、新田家の一族である堀口家の居館だったと推定されています。
堀口館が位置する堀口郷は元久2年に新田家本宗家惣領2代目新田義兼が地頭職に任ぜられた地とされます。
建保3年に岩松時宗に上堀口郷が譲られたものの、新田荘は代々新田宗家が所領していました。
新田家の系図は複数あり諸説ありますが、一般的には義兼の曾孫の家貞が堀口家の家祖に位置付けられている事から家貞が堀口郷を継承した際に地名に因み「堀口」姓を掲げたと推察されています。
家貞の跡を継いだ貞義(貞氏)の代に当地に居館を設けたと思われますが、「上野国志」では貞氏は大舘宗氏の兄で家貞と同一人物としている為、別説を採用していようです。
貞氏については、家貞(家員)の弟とも、家貞の子供の貞義の別名とも云われ、掘口館も家貞が築いたとも考えられます。
鎌倉時代末期の当主で家貞の孫に当たる堀口貞満は、惣領家の新田義貞に従い、元弘3年に義貞が鎌倉幕府打倒の為、生品神社で挙兵すると馳せ参じ、鎌倉侵攻に参加、その後も義貞の重臣として各地に従軍し功績を挙げています。
建武3年に御醍醐天皇が義貞に無断で足利尊氏と和睦し比叡山から都に降りようとした際には、新田一族の忠節を捨てるのであれば、義貞はじめ一族五十余人の頸を刎ね御出になるようにと奏上し、新田一族の官軍としての正統性を保証させたとされます。
堀口館の跡地には貞満が開創したと伝わる正覚寺が境内を構え、館跡の遺構も一部残されていたようですが、隣接する早川の水害が度々発生し被害を被っていた事から、昭和43年に堤防の改修工事に伴い、近隣の浄蔵寺に合併した為、館跡の遺構も完全に失われています。
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