荘田城

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荘田城:略データ
・場 所・群馬県沼田市井土上町
・築城年・伝:天慶3年
・築城者・伝:庄田平八
・城 主・庄田平八、沼田景盛、沼田景朝、和田氏
・構 造・居館
・文化財・沼田市指定史跡
・指定日・昭和51年3月30日
・概 要・荘田城は天慶3年に発生した平将門の乱平定を命じられた藤原秀郷の軍に従軍した庄田平八が築いたと伝えられています。

伝承によると、秀郷軍が勝利すると平八は平家一門の若者を密かに連れ帰り井土上の荘田和田に館を建てて匿ったと伝えられています。

その後、平家の若者は領民から和田之様と呼ばれるようになり、その跡を継いだ四郎は和田の庄司に就任したとされます。

四郎の子供太郎は「平」姓に復し、名を「経家」に改めると、当時の実力者だった平清盛から見出され、沼田、利根勢田両郡に領地が安堵されています。

源頼朝が平家打倒に為に挙兵すると経家はそれに呼応し、頼朝の重臣だった三浦家から室を迎えると、2人の娘である利根姫は頼朝との間に大友能直を儲けています。

大友能直は頼朝から重用され、建久7年に豊前、豊後両国守護兼鎮西奉行に、承元元年には、筑後国守護に就任し大友家の祖となっています。

ただし、能直の出自は不明な部分が多く、当地の伝承も諸説ある中の一説に過ぎないとされます。

宝治元年に発生した宝治合戦で三浦氏一族の多くが討死、又は自刃に追い込まれた際、一族の1人である景泰が縁戚関係だった当家を頼って荘田の地に落ち延び、「沼田」姓を掲げ、沼田家の祖になったとされます。

鎌倉時代末期の当主である沼田景盛は討幕の為に挙兵した新田義貞に従い鎌倉侵攻に従軍し、地位を確立しています。

応永12年に8代当主沼田景朝が本城を小沢城に遷すと、荘田城には家臣である和田氏を配しています。

伝承によると、景朝が小沢城に遷った際、荘田城内に居た牛と馬は余りの悲しさに石化し、現在荘田城の跡地に残されている牛石、馬石はその名残とされます。

その後の荘田城の経緯は判りませんが、戦国時代に沼田家は没落し沼田地方を後にした事から、其の頃に廃城になったと思われます。

荘田城は利根川東岸の沼田盆地の段丘に築かれ、築城当初は現在の熊野神社境内付近にあったとされ、その後、眼下の平場に遷ったと推定されています。

現在は荘田城址公園として堀の一部が復元される等整備され、公園内に流れる小川が堀跡とも云われています。

荘田城の城址は沼田氏発祥の地とも云われ歴史的にも貴重な事から沼田市指定史跡に指定されています。

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