・世良田館が何時頃築かれたのかは判りませんが、伝承によると中世当地を支配した世良田氏の居館だったと伝えられています。
一方、「世良田村旧蹟案内」によると世良田義政の館址としています。
世良田氏は新田義重の4男である新田義季が世良田郷を与えられ、その地頭に就任、その次男頼氏が世良田郷を引継ぎ、地名に因み「世良田」姓を掲げたのが始まりとされます。
寛元2年、本家の新田政義が、京都大番役として京都に在していた際、幕府に無許可で昇殿と剣非違使への任官を求めた事が問題視され、所領の一部と惣領職を没収され、新田家の惣領職は世良田義季と岩松時兼に分けられ、「半分惣領」となっています。
「半分惣領」は頼氏が家督を継いだ際にも引き継がれましたが、文永9年に鎌倉幕府8代執権北条時宗に謀反を企てた「二月騒動」の首謀者の1人である名越時章、名越教時兄弟の姉妹が頼氏の正室だった事から、連座し佐渡島に流されています。
後裔の世良田満義は鎌倉時代末期に惣領家の新田義貞に従い、幕府の討幕に加担、南北朝の動乱では引き続き新田家に従い南朝方の武将の1人として活躍しています。
跡を継いだ世良田政義は御醍醐天皇の皇子の1人宗良親王に仕えて世良田の地を離れ、至徳2年の狼合の合戦で、息子の親季と共に討死、跡を継いだ世良田政親に男子が居なかった事から断絶しています。
一方、世良田義政は岩松政経の嫡子として生まれ、世良田頼有の猶子となり、上野国新田荘世良田郷を賜ると地名に因み「世良田」姓を掲げたとされます。
鎌倉時代末期には惣領家である新田義貞に従うものの、南北朝の動乱では一転して足利氏に協力、しかし、謀反の嫌疑をかけられ、貞治3年/正平19年に足利基氏に攻められ自刃に追い込まれています。
発掘調査により東側と北側の堀の一部が確認され、特に東側の堀は幅約6m、深さ約3m、長さ約100mに及び、遺物として嘉元三年九月十八日比丘尼念阿と刻まれた全長1mの板碑と、正慶元年十月八日比丘尼蓮性と刻まれた全長1.65mの板碑が出土しています。
現在は歴史公園として整備され、隣地には世良田義季が開創したと伝わる長楽寺や江戸時代に徳川家の聖地として開創された世良田東照宮等があります。
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